2018年

12月

09日

「人の思いと異なる神の計画」(菊田行佳牧師)

昔若い頃に思い描いていた通りに、自分の人生が順調に進んで来た方はどれくらいいるのでしょうか。つつましくも家族や近隣の人々と仲良く平和に暮らせればそれで良いと思っていたのに、それすらも今は出来ていないと恥ずかしく思われている方もいるかもしれません。日々の生活に追われている大変さもさることながら、心が満たされない空しさが何より切なく思うこともあることでしょう。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なる。」という聖書の言葉は、そんな空しく思う私たちの人生をもう一度光を当て直すきっかけを与えてくれます。「神はわたしの人生に、何を望んでおられるのだろうか」そう見てみますと、人生の意味を見いだすことが出来るはずです。(イザヤ書55章1~11節(旧1152頁))

2018年12月9日説教原稿
2018年12月9日説教「人の思いと異なる神の計画」(菊田行佳牧師)原稿です。
2018_12_09説教.pdf
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2018年

11月

25日

「民を導く指導者とは」(菊田行佳牧師)

私たちは、どこかの場面で指導的な立場に立たざるをえなくなることがあると思います。仕事をしている人はもちろん、そうでなくとも家庭や町内会などで責任を負うことがあります。そのような時、どんなことに気をつけるべきでしょうか。聖書が教える指導者の姿は、平等性や公平性を守るところにあります。たとえ自分であっても特別扱いせずに、一人一人の構成員が公平に利益や権利を受け取れるように心を配ります。特に弱く傷つきやすい存在に特別な配慮をして引き上げることで、でこぼこを平らにします。ダビデという理想的な指導者の末であるイエス・キリストは、その事で世界に平和をもたらしてくれます。(サムエル記下5章1~5節(旧487頁))

2018年

11月

18日

「わたしはあるという者だ」(菊田行佳牧師)

モーセが神に対してそのお名前を聞くと、神はこう答えました。「わたしはあるという者だ」 これは、どういうことなのでしょう。これは、「神は優しい」とか、「いや、厳しい方だ」などと何かの属性や性質をともなわない無属性だということです。人間は、自らの願いを神に投影してしまうことがあります。そうして、神を狭い自分たちの世界に閉じ込めてしまうのです。それは同時に、私たち自身をも何かの型にはめ込んでしまうことを意味しています。神はその行き詰まりを打破するために、何者にも囚われないご自身の姿を現されます。(出エジプト記3章1~15節(旧96頁))

2018年

11月

11日

「子どもを授からない祝福もある」(菊田行佳牧師)

アブラハムとサラという夫婦のところに、3人の旅人が訪れました。普段生活している自分たちの世界からすると、その外側に暮らす人々です。彼らがもたらすものは幸福か。それとも災いなのか。時として、外からやって来る刺激は、私たちに混乱をもたらします。それまでの常識では通用せず、無理矢理変革を迫られる事態にも遭遇いたします。仲の良い家庭、子どもにも恵まれた理想的な家族。そんな常識を超えた、祝福された生のあり方を示される時が、突然訪れることがあるのですね。外部世界から訪れた3人の旅人は、神が使わしました。子どものいないこの夫婦に、神の祝福の意味を伝えに来たのです。(創世記18章1~15節(旧23頁))

2018年

10月

28日

「嵐の中から現れる神」(菊田行佳牧師)

砂嵐の中から、神はヨブに現れました。突然の幸福な人生が壊され、災いと病がヨブを襲います。子どもたちは自然災害によってすべて奪い去られ、ヨブの体中の皮膚が出来物によって覆われてしまいます。まさに、ヨブの人生も心の中も嵐の中に置かれていたのです。ヨブは自ら罪の性で天罰が下ったとはどうしても考えられません。それなら、どうして正しく生きようと努力している者に災いが下されるのだろうか。ヨブの苦闘の相手は、神でした。嵐の中から、神が答えてくれることを待ち望んだのです。神はどう答えるのでしょうか。(ヨブ記38118節(旧826頁))

2018年

10月

14日

「信仰によって生きる楽しみ」(菊田行佳牧師)

信仰によって生きることは、一見厳しい道を選択するようにも受け取れることです。人に従わず、神に従うということは、たとえ少ない人数であっても、安易に多数の人々に妥協をしないということも求められるからです。しかし、最も信仰者の前に立ちふさがり、対峙しなければならないのは神ご自身です。信仰者は理不尽に被る苦しみも、その出所をすべて最後は主なる神から来たものとして受け取るからです。神に向き合い、格闘し、弱り果てるとき、神の姿を見ることになります。この時一番天の神に近づくのです。この神とつながる取り組みは、何よりも楽しいことだと言えると思います。(ヘブライ人への手紙11章23~28節(新416頁))

2018年

9月

30日

「信仰に留まる大切さ」(菊田行佳牧師)

聖書の中には、大変厳しい言葉があります。「堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることは出来ません」という御言葉は、多くの人々を立ち止まらせ、深く考えさせてきました。中には、恐ろしくなって信仰から離れてしまった人もいるのです。それだけ、聖書の言葉というのは、多くの人によって真剣に向き合って来られたことばなのですね。神の言葉は、人を倒したり立ち上がらせたりします。自らのその時の状態に向かって、キリストは時には大変厳しい言葉を発せられます。もし、その言葉によって倒されたとしても、それも神さまの大切な時なのだと受け取りたいと思います。(ヘブライ人への手紙6章4~12節(新406頁))

2018年

9月

23日

「神が人と和解する福音」(菊田行佳牧師)

キリスト教の信仰者になるということは、他のことやものでは満たしたり、達成出来ないことがあるからです。キリストへの信仰によってしか得られないことは何かといえば、「神が人である私と、和解してくださったという関係」だと言えます。キリスト教では神が霊として人の心の中に住まない限り、心の中の「肉の思い」を制御できないと考えます。ですので、人の外から介入してくる神の力が私に手をさしのべるという和解の行為を経ることで、人は始めて真の意味で自制的な人間となれるのだということです。そして、信仰によって心に住むようになった神は、私たちを自らの欲望に抑制的にしつつ、その肉の力を愛の力に変えて生きられるようにしてくれます。(コロサイの信徒への手紙 1章21~29節(新369頁))

2018年

9月

16日

「多くの人の罪を負うため身を献げるキリスト」(菊田行佳牧師)

キリスト教の礼拝の特徴は、神による罪の赦しを出席する者たちに及ぼすところにあります。そしてその罪の赦しは、礼拝で赦された者たちが、礼拝以外の時に関わる人々に対してもおよんで行くことが意図されています。つまり、キリストの礼拝は、日常のすべての時間と場所へ広がりを持っているものなのです。神による罪の赦しは、人を真に受け入れることで、神の意志に立ち返る回心をもたらします。その時人は始めて根源的な罪責の念から解放されます。その事を一人でも多くの人々に及ぼすために、信仰者は心から祈っています。(ヘブライ人への手紙 9章23~28節(新411頁))

2018年

9月

09日

「すべてのことに富む者は、分け与える者」(菊田行佳牧師)

献金を献げることには、身を削る痛みを伴います。また、隣人に対して奉仕を行うことにも何かしらの犠牲が伴うものです。そこに神からの意図を見いださない限り、積極的に自分を分け与えるということは出来ないでしょう。人間にとって本当に意味のあることには、いつも痛みや犠牲を伴うということを、私たちは経験的に知っているのではないでしょうか。与えることで貧しくなることは、返ってより大切なことで豊かになるのだということを。キリストの十字架の犠牲によってこの世界は贖われ、命を再生させました。ここに連なることで私たちの痛みと犠牲に、意味が生まれるのです。(コリントの信徒への手紙二 9章6~15節(新335頁))

2018年

8月

19日

「地の果てを目指して生きる」( 菊田行佳牧師)

最初の頃のキリスト者たちは、大変身軽な生き方をしていました。すべての人ではありませんでしたが、中には総距離にして2万キロにもおよぶ福音伝道を行った人たちもいたのです。「食べるものと着るものさえあればそれで満足すべきです」という言葉をお互いに掛け合うことで、このような日々の生活に捕らわれすぎない生き方を選択して行きました。彼らの自己意識は次の様なものです。「私たちはこの世では旅人だ。永遠の世界に戻るまでの仮住まいの身なのである。」身軽な魂は、自由な人生をもたらしてくれます。(使徒言行録13章44~52節(新240頁))

2018年

6月

17日

「神の霊が目を覆う」(菊田行佳牧師)

神の霊が働くとき、突然目が見えなくなるということが起こりました。それまで自らの生き方に疑問を持つことなく、大きな問題を抱えていなかった人が、そのような状態に導かれることがあります。法を犯すような罪を犯してはいませんが、それでも欺瞞と偽りを抱えて、これも生きるための方便だと自らをごまかしていたところ、目の前が真っ暗にされるのです。その時目の暗さとは反対に、心の奥の方で開き始めた新しい目が誕生しかかっていることを予感いたします。「真実に、本当のことをして生きていきたい」。そのような無意識に潜む私たちの心の声を、神は霊によって引き出されます。(使徒言行録 13章1~12節 (新237頁))

2018年

5月

27日

「神の子どもとする霊を頂く」(菊田行佳牧師)

キリスト教の教会では洗礼を受けてキリスト者になることを、新しく生まれ変わると捉えて来ました。どう生まれ変わるのかと言いますと、それまで自分の体は自分自身が操縦していたのですが、これからは神の霊が私の体の中で働いてくれるのだという生き方に変わるのです。肉なる私は依然として弱いのですが、霊なる神は私の中で元気に働いてくれます。私のすること(義務)は、できる限り神の邪魔をしないことです。肉なる私と霊なる神(キリスト)が共生している状態を、父(アッバ=パパ)と私の家族の近さになぞらえられます。アッバと呼ぶ時、神と私は一つです。(ローマの信徒への手紙 8章12~17節 (新284頁))

2018年

5月

13日

「「イエスの祈りの中で」(菊田行佳牧師)

今回の聖書箇所では、イエスさまが弟子たちのために祈りを捧げられています。天の父なる神とイエスさま、そして聖霊が一つであるように、弟子たちも一つとなれるようにと祈られました。それは、弟子たちがそれぞれ一人一人ばらばらに歩むのではなく、一致を求めて行く過程にこそ、信仰にとってとても大切な意義があるのだと考えられていたからだと思います。この祈りは、弟子たちと今生の別れとなる最後の別れの晩に、弟子たちの心に残るように祈られたものです。このイエスさまの祈りに導かれ、一つになることを目指して行った時、なぜこのことを弟子たちに求められたのか、そのイエスさまの意図がわかるのだと思います。(ヨハネによる福音書 17章1~13節 (新202頁))

2018年

4月

29日

「喜びが満たされるように」(菊田行佳牧師)

もし、私たちがブドウの木の一部である枝であったとしたら、どんなことが一番の喜びになるでしょうか。やはり、良いブドウの実がなることだと思います。木の幹と実の間にある枝は、水分や養分を中継する役割を担うことに自らの喜びを見いだします。もしこれが、自分の所で全部消費してしまったらどうでしょう。良い実をもたらすことが出来ずに、一番の喜びは失われてしまいます。主役になるのではなく、つなぎ役に徹することで得られる喜びがあることを聖書は教えてくれます。(ヨハネによる福音書 15章1~11節 (新198頁))

2018年

4月

22日

「イエスが残したおきて」(菊田行佳牧師)

神の存在に、人が気がつくのはどんな時でしょうか。美しい草花などの自然にそっと身を置いた時、それらを造った方に思いをはせるということがあるでしょう。また逆に、荒涼とした虚しい世界の中で意味を与えてくれる存在を求める思いがわいてくるということもあると思います。それらの内で、人が人を愛そうというその中に、神は最もご自分の姿を現そうとしているのだと聖書は言います。どうしてそうなのかという理由は言いません。ただ、もし神のことを知りたいなら、「互いに愛し合いなさい」と言うだけです。そして、あなたたちがそのおきてを守るとき、人々は神の存在に気づくのだと言うのです。(ヨハネによる福音書13章31~35節(新195頁))

2018年

2月

18日

「野獣と天使が同居する」(菊田行佳牧師)

霊に導かれてイエスさまが送られたのは、悪魔や野獣がうごめく荒野でした。数知れぬ試練にさらされて、道からそれて行くように多くの誘惑をここで受けたのです。この苦難ばかりの荒野に導いたのはどんな霊なのかというと、なんとそれは神から出た霊、聖霊でした。神さまはどうして愛するイエスさまを、こんな危険なところに送られたのでしょうか。そして同じように、神さまはどうしてある人を、安全で何でも満たされたところではなく、困難な環境の中に送られることがあるのでしょうか。愛するからこそ、与えられる神の試練、そこに答えがありそうです。(マルコによる福音書 1 章 12~15 節(新 61 頁))

2018年

1月

28日

「どんな種を植えますか?」(菊田行佳牧師)

やるべきことを怠っているという後ろめたさや引け目が貯まって行くと、心に大きな負担が生じると思います。「罪」というのは、負い目、負債として当時の人々は考えていました。自分ではとうてい返せなくなった負い目は、誰かに代わってもらわない限りずっと重くのしかかる負担であり続けます。私たちの後ろめたさを払拭してくれて、負い目を取り除いてくれるのは、神さまの赦しであり、愛だけです。そして、その神の赦しを基調として人と人が関わる場所だけが、人を真に癒すことが出来るのです。(マルコによる福音書 4章1~9節、新66頁)

2017年

5月

28日

「天に帰る」(菊田行佳牧師)

イエスさまは死んだ後、復活されて、天に上げられました。このことを、キリスト教信仰書は信じます。ただ、このことを信じるということは、機械的に神的奇跡行為を信じることではありません。その内容が大切だと思います。イエスさまが天に帰るのは、地上で神と人とをつないだ結び付きを、そのまま天にまで持って帰るためだったというところがとても重要です。地上で結び合わされた神との繋がりは、天においても決して切れることはありません。そのことのために、イエスさまは天に帰って行かれました。(ルカによる福音書 24 章 44~53節(新 161 頁))

 

2017年

5月

21日

「天父の名はアッバ」(菊田行佳牧師)

いつも忙しく働いている人には、ゆっくり祈る時間もありません。イエスさまの周りには、祈りたくても祈ることの出来ない人々がたくさんいました。会堂で教師たちは、会衆に向かって熱心に祈る事を勧めていました。朝、昼、晩に祈る彼らが定めた祈祷文は、とても長いものでした。それに対して、イエスさまはご自分の弟子たちに非常に短くても、信仰の中心的事柄が込められている「主の祈り」を与えられました。その中でも、中心は神を「アッバ」と呼ぶことでした。(マタイによる福音書6章5~15節(新9頁))

 

2017年

5月

14日

「いのちを交流させる」(菊田行佳牧師)

近くにいる人ほど、実は理解していないということがあります。あまりにも当たり前になりすぎて、その人の良さが見えなくなってしまうのです。失って初めて、見えてくることもあるでしょう。イエスさまと弟子たちの関係も同じことが言えます。「わたしは道であり、真理であり、命である」というイエスさまの言葉が、あまりよくわかっていませんでした。イエスさまの死後、ようやくその言葉の意味を理解するに至った弟子たちは、さかのぼってイエスさまの言葉をたどり、天の父のところまで到達することが出来ました。(ヨハネ14章1~11節)。

 

2017年

4月

30日

「どんなしるしを見たいのか」(菊田行佳牧師)

同じものを見ても、同じ反応をしてくれるとは限りません。ある人にとっては、とても良いものとして目に映りますが、ある人にとっては悪いものとして見えることがあります。イエスさまの行いました福音宣教の働きは、まさにそのようなものでありました。多くの人々の目には、イエスさまがなさっていたことは天からのしるしとは写りませんでした。高貴な人々だけでなく、貧しい人にも福音を語り、病の苦しみを癒やされるイエスさまの姿を、天からのメシアだと気づいたのは、ほんの一握りの看たちだけでした(マタイ11章2-5節)。(マタイによる福音書12 章 38~42 節)(新 23 頁)

 

2017年

4月

23日

「いつもあなたがたと共にいる」(菊田行佳牧師)

死者の中から復活された主イエスさまは、「わたしにすべての力が、天と地において与えられた。それゆえ、行ってすべての人をわたしの弟子としなさい。父と子と聖霊の名において彼らに洗礼し、そしてわたしがあなたたちに命じておいたことをすべて行うように彼らに教えなさい」と言われました。この言葉からキリストの教会が始まりました。このみ言葉に従い、教会が洗礼を授ける働きを担う時、復活の主が私たちと共にいて一緒に働かれていることを知ることが出来ます。洗礼を受け、イエスさまの教えを行うことによって得られる喜びを、この時、ご一緒に考えましょう。(マタイによる福音書 28 章 16~20 節(新 60 頁))

 

2017年

3月

26日

「主に従う喜び」(新保能宏牧師)

イエス様の御業は語り尽くせない、限りない恵みに満ちています。その一つ一つに私たちは生かされています。私たち一人一人に与えられた恵みです。それを比較することはできません。しかし、自分に与えられた主に従う道を、誰かのものと比較したくなる好奇心にとらわれることがあります。イエス様はそのようなことは望んでおられません。一人一人が置かれたところで、主に従う道を大切に歩む時、主の栄光を現すことができるからです。この萩教会に招かれた一人一人の主に従う道が、限りない恵みに満ちた言葉となって、地域に語りかけ続けられる幸いに生かされたいと願います。(イザヤ書 26 章 7~9節(旧 1,099 頁)、及び、ヨハネによる福音書 21 章 20~25 節(新 212 頁))

 

2017年

2月

19日

「復活の主を信じる幸い」(新保能宏牧師)

イエス様は、日曜日の礼拝に来る私達の名を呼んでくださいます。復活された神の御子として、恵によって私達の罪を赦し、愛し、導き生かして下さるためです。私達は自分の思いや願いを持って、イエス様にお願いすることがあります。しかし、復活のイエス様は人間の思いや願いを遥かに超えたところから、私達を呼んでくださり、イエス様がどういうお方かを教えてくださいます。復活のイエス様御自身にこそ神様の深い愛と、大きな力が示されているからです。私達はそのイエス様の御声を聞き、自らが呼ばれていることを信じ、心から礼拝することで、神様の御心に生かされる幸いに与ることができるのです。(イザヤ書42章1~9節(旧1,128頁)、及び、ヨハネによる福音書20章1~18節(新209頁))

 

2017年

2月

12日

「御心は成就する」(新保能宏牧師)

聖書の言葉が実現したとあるのは、神様の御心が成就したということです。神様の御心は、死をも越える希望と喜びを私達に実現してくださるのです。 それは、イエス様の十字架によってなされます。私達がイエス様の十字架を私のためだと信じて仰ぎ見る時、私達を神様の御心を生きる者として変えてくださるのです。イエス様が活ける命の水として、私達の魂を潤し、私達に神様の真理をもたらしてくださるのです。具体的には、私達の現実の生活の中に、神様の愛を知らせ、慰め癒し、私達がどのように生きるべきかを指し示されるからです。それが神様の御心です。そして神様の御心は必ず成し遂げられるのです。(ゼカリヤ書12章7~14節(旧1,492頁)、及び、ヨハネによる福音書19章31~42節(新208頁))

 

2017年

1月

29日

「十字架の王を見よ」(新保能宏牧師)

イエス様を「見よ、この人を」と言われ、私達はどのような思いで見るでしょうか。私達に御自分の貴い命を献げ、私達の罪の身代わりになられた方だとしたら、そこには、神様の何にもかえられない恵と慈しみがあります。そうであるならば、その方に跪き、悔い改めと共にお仕えする心が、何より大切ではないでしょうか。御自身の十字架の犠牲によって、私達に永遠の救いと永遠の命さえも与えて下さるからです。だから、イエス様を、「この人を、見よ」と、愛する人々と共に仰ぎ見ることが、私達の大きな幸いであるのです。(ゼカリヤ書6章9~15節(旧1,485頁)、及び、ヨハネによる福音書18章38節b~19章16節a(新206頁))

2017年

1月

22日

「真理の声に生きる」(新保能宏牧師)

イエス様は、私達に「あなたにとって、わたしは誰なのか」と問われます。イエス様を自らの「王」としているかどうかです。なぜなら、イエス様にこそ神の真理があるからです。しかし、イエス様を否定する時、神の真理が見えなくなります。イエス様は、罪により真理が見えない私達のために十字架に向かわれます。そして私達に「わたしの声を聞き分けて従ってきなさい」と、恵みの御言葉を与えてくださるのです。生きるにしても死ぬにしても、私達の真理はここにあるからです。(イザヤ書55章6~7節(旧1,152頁)、及び、ヨハネによる福音書18章15~38節a(新204頁))

2017年

1月

08日

「神の愛に結ばれて」(新保能宏牧師)

イエス様は父なる神様とこの世界ができる前から共におられましたが、私達の救いのためにクリスマスにこの地上に来られ、十字架の御業によって私達の救いを成し遂げて下さいました。そのことにとって、世界に神様とイエス様の愛による栄光が現わされました。そうであれば、救われた私達は神様の愛に結ばれて一つです。イエス様は十字架に向かわれる時、私達全ての人々が一つになるように祈られました。それは私達の内に神様の愛が生きて働かれるようにということです。私達はこのイエス様の祈りに導かれ、一つになって、共に喜び、共に歌い、共に神様の栄光を現わしていきたいと思います。(詩編98編1~9節(旧935頁)、及び、ヨハネによる福音書17章20~26節(新203頁))

2016年

12月

18日

「喜び、祝う時」(新保能宏牧師)

私達が悲しみや苦しみに遭遇する時、それはいつまで続くか分からないほどの長さに感じます。絶望や諦めに支配されます。しかし、クリスマスの出来事は、そんな絶望や諦めの中に、救い主が私達と共に生きるために来て下さったという事です。クリスマスにお生まれになったイエス様は、十字架へと向かわれます。それは私達の罪の身代わりとして、私達を救うためなのです。イエス様は、私達の悲しみを喜びに変えると言われました。しかも、その喜びは誰からも奪われることのない喜びであると。たとえ、どんなに辛く悲しく、出口がみつからないほどの長さに感じられる苦しみでも、イエス様が共におられる喜びに出会うならば、その苦しみは、とても短く、なかったかのようにさえ感じられるものになると言われるのです。この恵みを喜び祝うクリスマスをお迎えしましょう。((イザヤ書26章16~19節(旧1,100頁)、及び、ヨハネによる福音書16章16~24節(新200頁))