2018年

6月

17日

「神の霊が目を覆う」(菊田行佳牧師)

神の霊が働くとき、突然目が見えなくなるということが起こりました。それまで自らの生き方に疑問を持つことなく、大きな問題を抱えていなかった人が、そのような状態に導かれることがあります。法を犯すような罪を犯してはいませんが、それでも欺瞞と偽りを抱えて、これも生きるための方便だと自らをごまかしていたところ、目の前が真っ暗にされるのです。その時目の暗さとは反対に、心の奥の方で開き始めた新しい目が誕生しかかっていることを予感いたします。「真実に、本当のことをして生きていきたい」。そのような無意識に潜む私たちの心の声を、神は霊によって引き出されます。(使徒言行録 13章1~12節 (新237頁))

2018年

5月

27日

「神の子どもとする霊を頂く」(菊田行佳牧師)

キリスト教の教会では洗礼を受けてキリスト者になることを、新しく生まれ変わると捉えて来ました。どう生まれ変わるのかと言いますと、それまで自分の体は自分自身が操縦していたのですが、これからは神の霊が私の体の中で働いてくれるのだという生き方に変わるのです。肉なる私は依然として弱いのですが、霊なる神は私の中で元気に働いてくれます。私のすること(義務)は、できる限り神の邪魔をしないことです。肉なる私と霊なる神(キリスト)が共生している状態を、父(アッバ=パパ)と私の家族の近さになぞらえられます。アッバと呼ぶ時、神と私は一つです。(ローマの信徒への手紙 8章12~17節 (新284頁))

2018年

5月

13日

「「イエスの祈りの中で」(菊田行佳牧師)

今回の聖書箇所では、イエスさまが弟子たちのために祈りを捧げられています。天の父なる神とイエスさま、そして聖霊が一つであるように、弟子たちも一つとなれるようにと祈られました。それは、弟子たちがそれぞれ一人一人ばらばらに歩むのではなく、一致を求めて行く過程にこそ、信仰にとってとても大切な意義があるのだと考えられていたからだと思います。この祈りは、弟子たちと今生の別れとなる最後の別れの晩に、弟子たちの心に残るように祈られたものです。このイエスさまの祈りに導かれ、一つになることを目指して行った時、なぜこのことを弟子たちに求められたのか、そのイエスさまの意図がわかるのだと思います。(ヨハネによる福音書 17章1~13節 (新202頁))

2018年

4月

29日

「喜びが満たされるように」(菊田行佳牧師)

もし、私たちがブドウの木の一部である枝であったとしたら、どんなことが一番の喜びになるでしょうか。やはり、良いブドウの実がなることだと思います。木の幹と実の間にある枝は、水分や養分を中継する役割を担うことに自らの喜びを見いだします。もしこれが、自分の所で全部消費してしまったらどうでしょう。良い実をもたらすことが出来ずに、一番の喜びは失われてしまいます。主役になるのではなく、つなぎ役に徹することで得られる喜びがあることを聖書は教えてくれます。(ヨハネによる福音書 15章1~11節 (新198頁))

2018年

4月

22日

「イエスが残したおきて」(菊田行佳牧師)

神の存在に、人が気がつくのはどんな時でしょうか。美しい草花などの自然にそっと身を置いた時、それらを造った方に思いをはせるということがあるでしょう。また逆に、荒涼とした虚しい世界の中で意味を与えてくれる存在を求める思いがわいてくるということもあると思います。それらの内で、人が人を愛そうというその中に、神は最もご自分の姿を現そうとしているのだと聖書は言います。どうしてそうなのかという理由は言いません。ただ、もし神のことを知りたいなら、「互いに愛し合いなさい」と言うだけです。そして、あなたたちがそのおきてを守るとき、人々は神の存在に気づくのだと言うのです。(ヨハネによる福音書13章31~35節(新195頁))

2018年

2月

18日

「野獣と天使が同居する」(菊田行佳牧師)

霊に導かれてイエスさまが送られたのは、悪魔や野獣がうごめく荒野でした。数知れぬ試練にさらされて、道からそれて行くように多くの誘惑をここで受けたのです。この苦難ばかりの荒野に導いたのはどんな霊なのかというと、なんとそれは神から出た霊、聖霊でした。神さまはどうして愛するイエスさまを、こんな危険なところに送られたのでしょうか。そして同じように、神さまはどうしてある人を、安全で何でも満たされたところではなく、困難な環境の中に送られることがあるのでしょうか。愛するからこそ、与えられる神の試練、そこに答えがありそうです。(マルコによる福音書 1 章 12~15 節(新 61 頁))

2018年

1月

28日

「どんな種を植えますか?」(菊田行佳牧師)

やるべきことを怠っているという後ろめたさや引け目が貯まって行くと、心に大きな負担が生じると思います。「罪」というのは、負い目、負債として当時の人々は考えていました。自分ではとうてい返せなくなった負い目は、誰かに代わってもらわない限りずっと重くのしかかる負担であり続けます。私たちの後ろめたさを払拭してくれて、負い目を取り除いてくれるのは、神さまの赦しであり、愛だけです。そして、その神の赦しを基調として人と人が関わる場所だけが、人を真に癒すことが出来るのです。(マルコによる福音書 4章1~9節、新66頁)

2017年

5月

28日

「天に帰る」(菊田行佳牧師)

イエスさまは死んだ後、復活されて、天に上げられました。このことを、キリスト教信仰書は信じます。ただ、このことを信じるということは、機械的に神的奇跡行為を信じることではありません。その内容が大切だと思います。イエスさまが天に帰るのは、地上で神と人とをつないだ結び付きを、そのまま天にまで持って帰るためだったというところがとても重要です。地上で結び合わされた神との繋がりは、天においても決して切れることはありません。そのことのために、イエスさまは天に帰って行かれました。(ルカによる福音書 24 章 44~53節(新 161 頁))

 

2017年

5月

21日

「天父の名はアッバ」(菊田行佳牧師)

いつも忙しく働いている人には、ゆっくり祈る時間もありません。イエスさまの周りには、祈りたくても祈ることの出来ない人々がたくさんいました。会堂で教師たちは、会衆に向かって熱心に祈る事を勧めていました。朝、昼、晩に祈る彼らが定めた祈祷文は、とても長いものでした。それに対して、イエスさまはご自分の弟子たちに非常に短くても、信仰の中心的事柄が込められている「主の祈り」を与えられました。その中でも、中心は神を「アッバ」と呼ぶことでした。(マタイによる福音書6章5~15節(新9頁))

 

2017年

5月

14日

「いのちを交流させる」(菊田行佳牧師)

近くにいる人ほど、実は理解していないということがあります。あまりにも当たり前になりすぎて、その人の良さが見えなくなってしまうのです。失って初めて、見えてくることもあるでしょう。イエスさまと弟子たちの関係も同じことが言えます。「わたしは道であり、真理であり、命である」というイエスさまの言葉が、あまりよくわかっていませんでした。イエスさまの死後、ようやくその言葉の意味を理解するに至った弟子たちは、さかのぼってイエスさまの言葉をたどり、天の父のところまで到達することが出来ました。(ヨハネ14章1~11節)。

 

2017年

4月

30日

「どんなしるしを見たいのか」(菊田行佳牧師)

同じものを見ても、同じ反応をしてくれるとは限りません。ある人にとっては、とても良いものとして目に映りますが、ある人にとっては悪いものとして見えることがあります。イエスさまの行いました福音宣教の働きは、まさにそのようなものでありました。多くの人々の目には、イエスさまがなさっていたことは天からのしるしとは写りませんでした。高貴な人々だけでなく、貧しい人にも福音を語り、病の苦しみを癒やされるイエスさまの姿を、天からのメシアだと気づいたのは、ほんの一握りの看たちだけでした(マタイ11章2-5節)。(マタイによる福音書12 章 38~42 節)(新 23 頁)

 

2017年

4月

23日

「いつもあなたがたと共にいる」(菊田行佳牧師)

死者の中から復活された主イエスさまは、「わたしにすべての力が、天と地において与えられた。それゆえ、行ってすべての人をわたしの弟子としなさい。父と子と聖霊の名において彼らに洗礼し、そしてわたしがあなたたちに命じておいたことをすべて行うように彼らに教えなさい」と言われました。この言葉からキリストの教会が始まりました。このみ言葉に従い、教会が洗礼を授ける働きを担う時、復活の主が私たちと共にいて一緒に働かれていることを知ることが出来ます。洗礼を受け、イエスさまの教えを行うことによって得られる喜びを、この時、ご一緒に考えましょう。(マタイによる福音書 28 章 16~20 節(新 60 頁))

 

2017年

3月

26日

「主に従う喜び」(新保能宏牧師)

イエス様の御業は語り尽くせない、限りない恵みに満ちています。その一つ一つに私たちは生かされています。私たち一人一人に与えられた恵みです。それを比較することはできません。しかし、自分に与えられた主に従う道を、誰かのものと比較したくなる好奇心にとらわれることがあります。イエス様はそのようなことは望んでおられません。一人一人が置かれたところで、主に従う道を大切に歩む時、主の栄光を現すことができるからです。この萩教会に招かれた一人一人の主に従う道が、限りない恵みに満ちた言葉となって、地域に語りかけ続けられる幸いに生かされたいと願います。(イザヤ書 26 章 7~9節(旧 1,099 頁)、及び、ヨハネによる福音書 21 章 20~25 節(新 212 頁))

 

2017年

2月

19日

「復活の主を信じる幸い」(新保能宏牧師)

イエス様は、日曜日の礼拝に来る私達の名を呼んでくださいます。復活された神の御子として、恵によって私達の罪を赦し、愛し、導き生かして下さるためです。私達は自分の思いや願いを持って、イエス様にお願いすることがあります。しかし、復活のイエス様は人間の思いや願いを遥かに超えたところから、私達を呼んでくださり、イエス様がどういうお方かを教えてくださいます。復活のイエス様御自身にこそ神様の深い愛と、大きな力が示されているからです。私達はそのイエス様の御声を聞き、自らが呼ばれていることを信じ、心から礼拝することで、神様の御心に生かされる幸いに与ることができるのです。(イザヤ書42章1~9節(旧1,128頁)、及び、ヨハネによる福音書20章1~18節(新209頁))

 

2017年

2月

12日

「御心は成就する」(新保能宏牧師)

聖書の言葉が実現したとあるのは、神様の御心が成就したということです。神様の御心は、死をも越える希望と喜びを私達に実現してくださるのです。 それは、イエス様の十字架によってなされます。私達がイエス様の十字架を私のためだと信じて仰ぎ見る時、私達を神様の御心を生きる者として変えてくださるのです。イエス様が活ける命の水として、私達の魂を潤し、私達に神様の真理をもたらしてくださるのです。具体的には、私達の現実の生活の中に、神様の愛を知らせ、慰め癒し、私達がどのように生きるべきかを指し示されるからです。それが神様の御心です。そして神様の御心は必ず成し遂げられるのです。(ゼカリヤ書12章7~14節(旧1,492頁)、及び、ヨハネによる福音書19章31~42節(新208頁))

 

2017年

1月

29日

「十字架の王を見よ」(新保能宏牧師)

イエス様を「見よ、この人を」と言われ、私達はどのような思いで見るでしょうか。私達に御自分の貴い命を献げ、私達の罪の身代わりになられた方だとしたら、そこには、神様の何にもかえられない恵と慈しみがあります。そうであるならば、その方に跪き、悔い改めと共にお仕えする心が、何より大切ではないでしょうか。御自身の十字架の犠牲によって、私達に永遠の救いと永遠の命さえも与えて下さるからです。だから、イエス様を、「この人を、見よ」と、愛する人々と共に仰ぎ見ることが、私達の大きな幸いであるのです。(ゼカリヤ書6章9~15節(旧1,485頁)、及び、ヨハネによる福音書18章38節b~19章16節a(新206頁))

2017年

1月

22日

「真理の声に生きる」(新保能宏牧師)

イエス様は、私達に「あなたにとって、わたしは誰なのか」と問われます。イエス様を自らの「王」としているかどうかです。なぜなら、イエス様にこそ神の真理があるからです。しかし、イエス様を否定する時、神の真理が見えなくなります。イエス様は、罪により真理が見えない私達のために十字架に向かわれます。そして私達に「わたしの声を聞き分けて従ってきなさい」と、恵みの御言葉を与えてくださるのです。生きるにしても死ぬにしても、私達の真理はここにあるからです。(イザヤ書55章6~7節(旧1,152頁)、及び、ヨハネによる福音書18章15~38節a(新204頁))

2017年

1月

08日

「神の愛に結ばれて」(新保能宏牧師)

イエス様は父なる神様とこの世界ができる前から共におられましたが、私達の救いのためにクリスマスにこの地上に来られ、十字架の御業によって私達の救いを成し遂げて下さいました。そのことにとって、世界に神様とイエス様の愛による栄光が現わされました。そうであれば、救われた私達は神様の愛に結ばれて一つです。イエス様は十字架に向かわれる時、私達全ての人々が一つになるように祈られました。それは私達の内に神様の愛が生きて働かれるようにということです。私達はこのイエス様の祈りに導かれ、一つになって、共に喜び、共に歌い、共に神様の栄光を現わしていきたいと思います。(詩編98編1~9節(旧935頁)、及び、ヨハネによる福音書17章20~26節(新203頁))

2016年

12月

18日

「喜び、祝う時」(新保能宏牧師)

私達が悲しみや苦しみに遭遇する時、それはいつまで続くか分からないほどの長さに感じます。絶望や諦めに支配されます。しかし、クリスマスの出来事は、そんな絶望や諦めの中に、救い主が私達と共に生きるために来て下さったという事です。クリスマスにお生まれになったイエス様は、十字架へと向かわれます。それは私達の罪の身代わりとして、私達を救うためなのです。イエス様は、私達の悲しみを喜びに変えると言われました。しかも、その喜びは誰からも奪われることのない喜びであると。たとえ、どんなに辛く悲しく、出口がみつからないほどの長さに感じられる苦しみでも、イエス様が共におられる喜びに出会うならば、その苦しみは、とても短く、なかったかのようにさえ感じられるものになると言われるのです。この恵みを喜び祝うクリスマスをお迎えしましょう。((イザヤ書26章16~19節(旧1,100頁)、及び、ヨハネによる福音書16章16~24節(新200頁))

2016年

12月

11日

「救いの真理が来た」(新保能宏牧師)

イエス様のご降誕を迎えます。それは救いの真理に私達が生かされる時でもあります。イエス様がこの世に来られたということは、私達が罪の誤りから救われることです。神様がいかに私達を愛されているかということです。イエス様は十字架に架かり復活しこの世を去られましたが、聖霊がイエス様のご生涯の全てを今に生きる私達に告げ知らせ、そのイエス様と共に生きることを可能にされました。イエス様が私達のところにお生まれになったという喜びや恵みを、そのまま救いの真理として、私達の心と生活にもたらすのです。その真理に生かされた私達は、イエス様のご降誕の証人としてこの世に遣わされています。なぜなら、その救いの真理は、私達が生きるこの世を愛し救うことだからです。クリスマスにはぜひ愛する人達をお誘いし、共にイエス様のご降誕をお祝いしたいと思います。(イザヤ書61章1~4節(旧1,162頁))、及び、ヨハネによる福音書16章1~15節(新200頁))

2016年

10月

30日

「新しい掟、愛に生きる」(新保能宏牧師)

私達が苦しい時、悲しい時、神様はどこにおられるのか。イエス様はどこに行かれたのかと思う時があります。しかしイエス様は私達と共に居て下さるのです。心の奥深くに、生活の隅々に、神様の愛が生きて働いておられるのです。だから、祈ることを止めてはいけないのです。諦めなくてもよいのです。絶望の中にこそ、希望の光が見えてくるからです。イエス様の復活の光の中に私達は生かされています。そこで、隣人と共に苦しみ悲しむことができるのです。そしてイエス様の光を共に見る事ができるのです。イエス様が私のために死に、苦しみ悲しまれたように、私達もそのイエス様の愛に従うことができるのです。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも、互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが、わたしの弟子であることを、皆が知るようになる」と。この復活のイエス様の「新しい愛の掟」に生き、愛の交わりを造り出す教会として、イエス様の弟子として、希望と喜びを携えて歩んでいけるのです。(エレミヤ書31章31~34節(旧1,237頁)、及び、ヨハネによる福音書13章31~38節(新195頁))

2016年

10月

23日

「闇に輝く愛がある」(新保能宏牧師)

イエス様は弟子達にユダの裏切りの予告をします。聖書はその時「夜であった」と記します。しかし弟子達はユダの裏切りに気が付かないのです。それは弟子達の心にも「夜」という闇があったからです。私達の心にも「夜」の闇があります。しかしイエス様の愛は、この闇を切り裂くような愛です。十字架の光によって、たとえ私達がどんなに濃い闇の中にいようとも、神の愛の光を射し込ませることができるのです。そこに私達の救いがあるからです。(イザヤ書43章8~15節(旧1,131頁)、及び、ヨハネによる福音書13章21~30節(新195頁))

 

2016年

9月

25日

「永遠の命の恵み」(新保能宏牧師)

イエス様は、私達に向かって叫んでおられます。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしを遣わされた方を信じるのである」と。私達は自分が不利になる時に、イエス様への信仰を公言できなかったり、神様からの誉より人間の誉に惹かれるからです。イエス様は、世を救うために来たが、信じない者は裁かれると語りました。イエス様への信仰に生きる者は、永遠の命に生かされていることを告げます。それが神様の御心だからです。(イザヤ書6章8~13節(旧1,070頁)、及び、ヨハネによる福音書12章36b~50節(新193頁))

 

2016年

9月

18日

「光の子として生きよう」(新保能宏牧師)

イエス様は私達の贖いとして十字架に架かり、神様の愛をお示しになりました。それは、私達をどんなことをしても救いたいという御心です。イエス様は十字架の上から、私達一人一人を神の愛という光の中へと招いていてくださるのです。この御心を信じる時、イエス様の十字架の光の中に生かされるのです。光の子として、この世の闇から解き放たれます。私達を闇の中に閉じ込めておこうとする力に打ち勝つ光の力が、私達に注がれるからです。私達は神様の光の子として、守られ、立ちむかい、歩むべき道が照らされるのです。(詩編43編1~5節(旧876頁)、及び、ヨハネによる福音書12章27~36節a(新192頁))

 

2016年

7月

24日

「命にみちびく牧者」(新保能宏牧師)

イエス様は「わたしは良い羊飼いである」と言われます。それは、羊飼いの中には、羊を盗んだり、見捨てたり、追い散らす羊飼いがいるのです。しかし、イエス様こそが「良い羊飼い」なのです。どんな時にも、守り、養い、導く方だからです。それも、「羊のために命を捨てる」と、自分を犠牲にしてまでも、羊を愛することができるのです。しかも「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」と言われます。これは、神様の大きな力と権威を表わしています。十字架の死と復活の命によって、自分の羊を救い、神の栄光をあらわす権威と力を示されるのです。このイエス様が、私達一人一人の名を呼んでくださるのです。私達がその声を聞き分け、偽物に惑わされないようにする時、神様の救いへと導かれるのです。(エゼキエル書34章11~16節(旧1,352頁)、及び、ヨハネによる福音書10章1~21節(新186頁))

 

2016年

7月

17日

「救い主を見る」(新保能宏牧師)

私達は、救いをまっすぐに、素直に見ているでしょうか。自分の知識の範囲で神様の救いを把握しようとしたり、世の中の事情に合わせて信仰を捕えようとするなら、イエス様という方が見えなくなります。私達は本来、御心を知る事のできない罪の中にいます。盲目なのです。だから、まっすぐに、素直に、イエス様を見上げ、イエス様にこそ救いがあると証しする時、たとえそこに反発や障害が起こっても、イエス様の方から出会ってくださって、救いの確信を与えてくださいます。必ず救いの御業をあらわしてくださいます。そこに、礼拝する者の幸いがあります。礼拝者は、救い主を仰ぎ見る喜びに満ちているからです。(イザヤ書62章10~12節(旧1,164頁)、及び、ヨハネによる福音書9章18~41節(新185頁))

 

2016年

6月

26日

「勝利者を仰ぎ見る」(新保能宏牧師)

ユダヤ人達は自分達こそがアブラハムの子孫、神様から出た者、神様の御心を行える者だと自負していました。だから、御自身こそが父なる神様から遣わされて来たと言われるイエス様を殺そうとしていました。それに対して、イエス様は彼らの父は悪魔であると言われます。悪魔は滅びに向かわせるものだからです。ユダヤ人達はイエス様を、神様からの方ではないとイエス様を否定していました。果たして、私達はイエス様をどういうお方だと信じ、礼拝しているでしょうか。本当に神様からの方だと信じているでしょうか。それによっては、イエス様から、私達もユダヤ人達のように、私の父とあなた達の父は違うと言われかねないのです。イエス様は「私の言葉に留まりなさい」と言われました。イエス様の御言葉に留まり、従う時、真理が分かるからです。神様が私達の父となり、救いの御業が現わされるからです。私達自身にも罪があります。しかし、イエス様は御自身が十字架に架かって下さることで、『わたしはある』ということをお示しになりました。それはまさに、私達を悪魔から救い出して下さるために、悪魔に勝利され、神様と同じ方であることを現わされるためでした。その勝利者イエス様を仰ぎ、心から礼拝をしたいと思います。(創世記18章1~15節(旧23頁)、及び、ヨハネによる福音書8章39~59節(新182頁))

 

2016年

4月

24日

「命のパンに生かされる」(新保能宏牧師)

イエス様は「わたしは命のパンである」と言われます。このパンを食べる者は、イエス様の命に繋がって生きることを意味します。それは永遠に生き、この世にあっても神の命に生かされる恵みを得るのです。教会の聖餐式は、イエス様ご自身が私達に近づいて来て下さり、一人一人にその命のパンを分け与えてくださるものです。深い感謝と大きな喜びをもってお受けしたいと思います。一人でも多くの方々にこの感謝と喜びに与っていただきたいと祈ります。(イザヤ書54章11~17節(旧1,151頁)、及び、ヨハネによる福音書6章41~59節(新176頁))

 

2016年

1月

31日

「永遠の命に生きる人」 (新保能宏牧師)

ニコデモという人がイエス様を訪ねてきます。どうしたら、神の国に入る事ができるのかを問います。イエス様は神の霊を受け、新しく生まれなければならないと言われますが、神の霊の力とイエス様の言葉を信じられません。「どうして、そんなことがありえましょう」と。その彼にイエス様は御自分がどういう方かを示されます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と。神の愛は、御子を与えるほどの愛であると。その愛は、御自分を十字架に架けることだと証しされたのです。このイエス様を信じることが、神の国への招きだったのです。私達の心にも光を受け入れられない闇があるかもしれません。しかし、その私達のために十字架に架かってくださったイエス様を見上げ仰ぐ時、救われ永遠の命を得ることができるのです。それは、荒れ野で罪を犯した民が、モーセの上げた蛇を見上げた時、命を得たように、私達も滅びず、神の国に入ることができるのです。ここに、永遠の命に生きる人への、イエス様の愛の招きがあるのです。(民数記21章4~9節(旧249頁)、及び、ヨハネによる福音書3章1~21節(新167頁))

2016年

1月

24日

「神の子のしるし」 (新保能宏牧師)

私達人間は自分で自分の全てを知りつくすことはできません。主イエスの目から見たら、私達の心の奥底にあるものは、罪ある信用のできないものだと言われます。そんな私達の日常の中で、神の子のしるしを現わされる方が主イエスです。婚礼の宴席でぶどう酒がなくなることは一大事でしたが、その危急を救われるのでした。しかし、神の子の真のしるしは、十字架と復活です。そのあふれるほどの恵みが、私達の現実に現わされるのです。しかし、神殿での神への祈りや礼拝が、自分達の利益や自分達の都合のためになった時、主イエスは怒りを表されました。「崩壊した神殿を三日で造り直して見せる」と言われた主イエスは、人間の心の底にある崩壊した神殿を、十字架と復活によって造り直すと言われたのです。私達の水のような取るに足りない、罪に汚れた存在を、上等なぶどう酒に変えて下さることができるのです。私達自身が知らない自分をとことんまで知り、何が必要なのかを知って下さって、あふれる恵みに満たして下さるのです。その恵みを持ち運ぶことができるのは、それがどこからきたかを知っている、主イエスの体なる教会なのです(イザヤ書41章8~16節(旧1,126頁)、及び、ヨハネによる福音書2章1~25節(新165頁))。