2019年

5月

19日

「あなたでなく、わたしがあなたを選んだ」(菊田行佳牧師)

「あなたがたが、わたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのだ」と、イエスさまは言います。このみ言葉は、人から主導権を取り上げて、神の意図がすべての事柄に優先していることを宣言するものです。特に、人の選びよりも神の選びの方が優先されるところとして、「互いに愛し合いなさい」というみ言葉の実践の場面があります。神は時に、大変難しい組み合わせにおいて、このみ言葉に取り組むことを望まれることがあります。「あなたが選ぶと、すぐ楽な方ばかりに行こうとするから、わたしが選んであげよう」そう言って、困難な課題に私たちを向き合わせられることがあるのです。子どもであっても、親であっても、知人や友人であっても、誰でも今与えられている組み合わせに、神の選びを信じましょう。(ヨハネによる福音書15章12~17節(新199頁))

2019年

5月

12日

「永遠の命に導く食べ物」(菊田行佳牧師)

「わたしが命のパンである」と、イエス・キリストはおっしゃいます。このパンを食べるとき、人は決して飢えることがなく、またかわくこともないのだと言うのです。キリスト教信仰をこの言葉に照らして言ってみますと、信仰者とは普段食べる「主食」を変えた人々だと言えます。私たちの体は、その人が好む食べ物によって造りが変わって行きます。甘いものが好きな人は脂肪が付きやすいように、聖書の言葉を主な食物と換えることで、その心や考え方は大きく変わって行きます。例えば「何を食べようか、何を着ようか」と考えて生きていたのが、「朽ちるものではなく、永遠の命に至るもののために働こう」と変わる時、それまでとは違う命のあり方に変容しています。その時、私たちの飢えと渇きが、本当に満たされるのです.(ヨハネによる福音書 6 章 34~40 節(新 175 頁))

2019年

4月

28日

「復活したキリストを見る」(菊田行佳牧師)

死者の中から復活したイエス・キリストが、その姿を現すところとして、教会での礼拝の場が挙げられます。日々の生活の中で疲れて、意気消沈して暗い顔になるとき、復活したキリストは私たちの側に立ち、み言葉によって、また聖餐式を通してその心を回復させてくれます。復活したキリストが私たちの心を捉えることで、また心は燃え上がるのです。そして、また日常の生活に戻ることが出来るのですが、その時、目が開かれそれまでの世界の見方が変わり、視野が広がります。そうして私たちは命が再生されたものとして、再びこの世界に向かって行けるのです。(ルカによる福音書24章13~35節(新160頁))

2019年

4月

07日

「捨てられたものに隠されたもの」(菊田行佳牧師)

2019年4月7日 礼拝説教原稿
「捨てられたものに隠されたもの」(菊田行佳牧師)
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2019年

3月

31日

「永遠の光に照らして見る」(菊田行佳牧師)

普段は気がつかないことが、ふとわかるという時があると思います。キリスト教の礼拝は、自らの日々の生活に新たに光をあてることで、意識的に視点を変えることを起こすものです。礼拝は、イエス・キリストの祈る言葉の中に、自らの身を置き直すことに他なりません。そのみ言葉によって、自分の人生に新たな意味を見い出させようと、キリストはご自分の祈りの中に人々を招かれます。人の目からはひどく醜いことであったとしても、神はそのようには見ておらず、そこに変容した尊い価値を見いだして下さいます。その神の視点から見た世界を、参与する人々に見せてくださるのです。(ルカによる福音書9章28~36節(新123頁))

2019年3月31日 説教原稿
「永遠の光に照らして見る」(菊田行佳牧師)
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2019年

3月

24日

「背負うものによって変わる人生」(菊田行佳牧師)

キリスト教のシンボルとして、十字架が教会に掲げられています。十字架の意味とは一体何であるでしょうか。一つはイエス・キリストの受難(死)を現していますが、それだけではありません。他者を救い生かすために、隣人への愛のためになされたすべてのキリストの苦しみをも意味しています。この十字架の苦難を、自らも背負いたいと願う者に、神は本当の命を与えてくださいます。苦しみを避けることで返って失う命がある一方で、自分の安全や命を捨てることで得られる真の命があるのですね。十字架を通した平安と自由に満ちた命です。(ルカによる福音書9章18~27節(新122頁))

2019年3月24日 説教原稿
「背負うものによって変わる人生」(菊田行佳牧師)
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2019年

3月

17日

「悪霊の正体とは何か」(菊田行佳牧師)

聖書には悪霊とか悪魔という言葉が沢山出てきます。現代の私たちにとっては、とっつきにくく理解しがたい聖書の言葉だと思われます。しかし、今回の聖書箇所で悪霊がとりついていた人物の方に目を向けてみたらどうでしょう。その人物は、悪霊によって口がきけなくなっていました。誰とも話すことが出来ずに人と接することも難しくなっている人が身近にいる人にとっては、とても興味を引く話に聞こえてこないでしょうか。もしこの聖書箇所を通して、その苦しんでいる人が救われるのなら、聖書に耳を傾ける気持ちにならないでしょうか。聖書は私たちの愛を引き出す力を持っています。(ルカによる福音書11章14~26節(新128頁))

2019年3月17日 説教原稿
「悪霊の正体とは何か」(菊田行佳牧師)
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2019年

3月

10日

「狭い道の先にあるもの」(菊田行佳牧師)

私たち人間は、何かと誘惑の多い生活をしていると思います。たとえば悪魔のような存在が、私たちを迷わして滅びに至らせようとしていると考えざるをえないことが起こります。それは、キリスト教信仰を持った後も起こることです。いえむしろ、その後の方がより迷い悩むこともあるのです。主イエスも、他の人間と同じようにこの誘惑に遭われました。主イエスは神の言葉に従うことでその誘惑を退けましたが、実はこの誘惑は神の霊から出た試練だったのです。試練を経た後、主イエスを待ち受けていたものはこの世のものとは思えない平安と自由です。神の試練は大きな実りをもたらすのです。(ルカによる福音書4章1~13節(新107頁))

2019年3月10日説教原稿
「狭い道の先にあるもの」(菊田行佳牧師)
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2019年

3月

03日

「神のみ手の中で食事する」(菊田行佳牧師)

2019年3月3日説教原稿
「神のみ手の中で食事する」(菊田行佳牧師)
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2019年

2月

24日

「罪が赦され癒やされる」(菊田行佳牧師)

イエスさまは、人々の病を癒すことをよくなされていましたが、今回の聖書の箇所では、重い皮膚病の人と中風(身体の麻痺)の人の病を癒されました。ここでイエスさまが病を癒されるのに用いた方法は、一つは「汚れを清める」というものでした。当時は病を患う人は汚れていると考えられたので、病気が癒されて初めてその汚れは清められたとしていたのです。しかし、イエスさまは病気自体を汚れとは考えません。病人を汚いものでも扱うようなその心のあり方こそ汚れているとされたのです。同じように、当時は病気をその人やその家族が犯した罪が原因としても考えていました。ですから、病気が癒されて初めて罪が赦されたのだとしたのです。これに対しても、病気をその人たちの自己責任として冷たく扱うその姿勢こそ、罪深い行為なのだとイエスさまはその意味を変容いたしました。癒しに先行する清めと2つめの「罪の赦しの宣言」は、病気を患い身体的にも精神的にも苦しめられていた人々の心に触れる神のみ手そのものでした。心や体の癒やしもさることながら、人々の病人への考え方をお癒しになり、その関わり方を変えられたことが、より大きな意味での病の癒しの業として言うことができるでしょう。(ルカによる福音書5章12~26節(新110頁))

2019年2月24日説教原稿
「罪が赦され癒やされる」(菊田行佳牧師)
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2019年

2月

17日

「良い土地に種がまかれる」(菊田行佳牧師)

イエスさまは、人々に種まきのたとえ話をされました。四つの種のうちで良い土地に落ちたのは、たったの一つでした。そうすると、先にまいた三つの種は無駄になったようにも思えます。しかし、その3つの失敗があったからこそ、四つめの良い土地を探し当てることにつながったのだとも考えられます。どう考えるかで、人生を前向きにも後ろ向きにもすることが出来ますね。この種は「神の言葉」を表していますが、人生そのものを良い土地に耕すには、神の言葉をまき続ける根気も必要です。たとえうまく行かない方がよっぽど多かったとしても、その失敗や挫折が肥やしとなってくれます。神の恵みの実がみのるためには、何一つ無駄なものはないのですね。(ルカによる福音書8章4~15節(新118頁))

2019年2月17日 説教原稿
「良い土地に種がまかれる」(菊田行佳牧師)
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2019年

2月

10日

「主の安息の日に命が救われる」(菊田行佳牧師)

「安息日」というのは、神さまが私たち人間に与えてくださった聖なる特別な日です。それは、労働からの解放の日であり、心と体を回復させる日であります。置かれている立場に限らず、たとえ雇われ人という弱い立場の人であっても、皆平等に休息を与えてくださることが神さまの目的です。1週間の内、最低1日は働くことを免除されることが、神さまの慈しみから出たものです。その休息を通して、また回復して生きて行くための命を与えてくれるのが「安息日」なのです。しかし、時としてその命を与えるはずのものを、返って人々の命を圧迫し、減退させてしまうものに変えてしまうことがあります。宗教や信仰が自らのあり方を顧みる必要もあるのです。(ルカによる福音書6章1~11節(新111頁))

2019年2月10日説教原稿
「主の安息の日に命が救われる」(菊田行佳牧師)
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2019年

2月

03日

「新しいぶどう酒が注がれる」(菊田行佳牧師)

2019年2月3日説教原稿
「新しいぶどう酒が注がれる」(菊田行佳牧師)
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2019年

1月

27日

「豪華な神殿にまさる建物」(菊田行佳牧師)

神さまに捧げ物をするのは何も豊かな人だとは限りません。たとえ経済的に厳しい生活をしている人でも、献金を捧げます。それは「受けるより与える方が幸いだ」という主イエスの言葉があるからです(使徒20:35)。人と人が物や心を交換し合うところに喜びを感じるように、神との関係も相互の交流が深い喜びをもたらしてくれます。捧げ物を免除してしまうと、この機会を奪うことになってしまいます。捧げ物の問題点は、貧しい者も捧げているというのに、その使い道が神の御心に適っていないところにあります。捧げ物によって豪華な装飾品で飾っていた神殿を、主イエスは崩れ去ると予告しました。外見によらずに、まことの礼拝をするところこそが必要なのです。(ルカによる福音書21章1~9節(新151頁))

2019年1月27日説教原稿
「豪華な神殿にまさる建物」(菊田行佳牧師)
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2019年

1月

20日

「重荷から解放されて回復する」(菊田行佳牧師)

人の貧しさにはいろいろあると思います。お金がいつもないとか借金をたくさん抱えていていつも重くのしかかり、つぶれてしまいそうな貧しさがあります。そうかと思えば貯金は沢山あるけれど、心にぽっかり穴が空いた貧しさもあります。救い主がこの世界に訪れたのは、そのような人間が抱えるすべての貧しさから癒やし、回復させるためです。私たちを束縛し圧迫するすべての重荷から回復させるため、主イエスは私たちの前に現れます。それは丁度治療に行きづまった患者に手をさしのべる医者のようです。医者は患者の信頼を獲得するために身を捧げてくれます。主イエスは人間なら誰でも陥る根の深い病から回復させるため、命をかけられる最良の医師でなのです。(ルカによる福音書4章16~30節(新107頁))

2019年1月20日説教原稿
「重荷から解放されて回復する」(菊田行佳牧師)
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2019年

1月

13日

「イエスの弟子になるということ」(菊田行佳牧師)

イエスさまの弟子になるということは、それまでの生活を大きく変えて行きます。一番最初の弟子たちは、それまでどれだけ多くの魚を捕ることができるかを一番に気にする生活を送っていた漁師でした。それが、イエスさまに出会って従うようになりますと、一番に大切にするものが変わってしまいます。それは「聖なるもの」との繋がりです。この繋がりこそが、生活を本当の意味で豊かに生き生きと再生させてくれるものだったのです。しかし、「聖なるもの」は同時に人間の恐れをも引き起こします。ですので「恐れることはありません」と励ます人が必要です。弟子たちは、その役割にも招かれています。(ルカによる福音書 5 章 1~ 11節(新109頁))

2019年1月13日説教原稿
「イエスの弟子になるということ」 (菊田行佳牧師)
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2019年

1月

06日

「洗礼という人生の転換点」(菊田行佳牧師)

2019年1月6日説教原稿
「洗礼という人生の転換点」(菊田行佳牧師)
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2018年

12月

30日

「クリスマスの来訪者」(菊田行佳牧師)

クリスマスに御子イエス・キリストのお誕生を喜べない状況が私たちにはあると思います。そのような人の代表として聖書にはエルサレムの住人たちが挙げられています。ユダヤの首都であったエルサレムでしたが、この町は外国から支配され虐げられてきたという苦しみの歴史がありました。ここの住民にとって、救いとは外国の支配からの解放であり、抑圧から自由にされることでした。御子イエスさまは、この彼らの重い苦しみを贖います。しかし、同時にすべての人を罪から贖うためにもお生まれになられたのです。私たちの救いとすべての人の救い。この二つを重ねて見る必要があります。(マタイによる福音書2章1~12節(新2頁))

2018年12月30日説教原稿
「クリスマスの来訪者」(菊田行佳牧師)
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2018年

12月

23日

「暗闇の中で輝く光」 (菊田行佳牧師)

2018年12月23日クリスマス礼拝 説教原稿
「暗闇の中で輝く光」 (菊田行佳牧師)
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2018年

12月

16日

「恐れを打ち消す神の愛」(菊田行佳牧師)

2018年12月16日説教原稿
「恐れを打ち消す神の愛」(菊田行佳牧師)
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2018年

12月

09日

「人の思いと異なる神の計画」(菊田行佳牧師)

昔若い頃に思い描いていた通りに、自分の人生が順調に進んで来た方はどれくらいいるのでしょうか。つつましくも家族や近隣の人々と仲良く平和に暮らせればそれで良いと思っていたのに、それすらも今は出来ていないと恥ずかしく思われている方もいるかもしれません。日々の生活に追われている大変さもさることながら、心が満たされない空しさが何より切なく思うこともあることでしょう。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なる。」という聖書の言葉は、そんな空しく思う私たちの人生をもう一度光を当て直すきっかけを与えてくれます。「神はわたしの人生に、何を望んでおられるのだろうか」そう見てみますと、人生の意味を見いだすことが出来るはずです。(イザヤ書55章1~11節(旧1152頁))

2018年12月9日説教原稿
「人の思いと異なる神の計画」(菊田行佳牧師)
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2018年

11月

25日

「民を導く指導者とは」(菊田行佳牧師)

私たちは、どこかの場面で指導的な立場に立たざるをえなくなることがあると思います。仕事をしている人はもちろん、そうでなくとも家庭や町内会などで責任を負うことがあります。そのような時、どんなことに気をつけるべきでしょうか。聖書が教える指導者の姿は、平等性や公平性を守るところにあります。たとえ自分であっても特別扱いせずに、一人一人の構成員が公平に利益や権利を受け取れるように心を配ります。特に弱く傷つきやすい存在に特別な配慮をして引き上げることで、でこぼこを平らにします。ダビデという理想的な指導者の末であるイエス・キリストは、その事で世界に平和をもたらしてくれます。(サムエル記下5章1~5節(旧487頁))

2018年

11月

18日

「わたしはあるという者だ」(菊田行佳牧師)

モーセが神に対してそのお名前を聞くと、神はこう答えました。「わたしはあるという者だ」 これは、どういうことなのでしょう。これは、「神は優しい」とか、「いや、厳しい方だ」などと何かの属性や性質をともなわない無属性だということです。人間は、自らの願いを神に投影してしまうことがあります。そうして、神を狭い自分たちの世界に閉じ込めてしまうのです。それは同時に、私たち自身をも何かの型にはめ込んでしまうことを意味しています。神はその行き詰まりを打破するために、何者にも囚われないご自身の姿を現されます。(出エジプト記3章1~15節(旧96頁))

2018年

11月

11日

「子どもを授からない祝福もある」(菊田行佳牧師)

アブラハムとサラという夫婦のところに、3人の旅人が訪れました。普段生活している自分たちの世界からすると、その外側に暮らす人々です。彼らがもたらすものは幸福か。それとも災いなのか。時として、外からやって来る刺激は、私たちに混乱をもたらします。それまでの常識では通用せず、無理矢理変革を迫られる事態にも遭遇いたします。仲の良い家庭、子どもにも恵まれた理想的な家族。そんな常識を超えた、祝福された生のあり方を示される時が、突然訪れることがあるのですね。外部世界から訪れた3人の旅人は、神が使わしました。子どものいないこの夫婦に、神の祝福の意味を伝えに来たのです。(創世記18章1~15節(旧23頁))

2018年

10月

28日

「嵐の中から現れる神」(菊田行佳牧師)

砂嵐の中から、神はヨブに現れました。突然の幸福な人生が壊され、災いと病がヨブを襲います。子どもたちは自然災害によってすべて奪い去られ、ヨブの体中の皮膚が出来物によって覆われてしまいます。まさに、ヨブの人生も心の中も嵐の中に置かれていたのです。ヨブは自ら罪の性で天罰が下ったとはどうしても考えられません。それなら、どうして正しく生きようと努力している者に災いが下されるのだろうか。ヨブの苦闘の相手は、神でした。嵐の中から、神が答えてくれることを待ち望んだのです。神はどう答えるのでしょうか。(ヨブ記38118節(旧826頁))

2018年

10月

14日

「信仰によって生きる楽しみ」(菊田行佳牧師)

信仰によって生きることは、一見厳しい道を選択するようにも受け取れることです。人に従わず、神に従うということは、たとえ少ない人数であっても、安易に多数の人々に妥協をしないということも求められるからです。しかし、最も信仰者の前に立ちふさがり、対峙しなければならないのは神ご自身です。信仰者は理不尽に被る苦しみも、その出所をすべて最後は主なる神から来たものとして受け取るからです。神に向き合い、格闘し、弱り果てるとき、神の姿を見ることになります。この時一番天の神に近づくのです。この神とつながる取り組みは、何よりも楽しいことだと言えると思います。(ヘブライ人への手紙11章23~28節(新416頁))

2018年

9月

30日

「信仰に留まる大切さ」(菊田行佳牧師)

聖書の中には、大変厳しい言葉があります。「堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることは出来ません」という御言葉は、多くの人々を立ち止まらせ、深く考えさせてきました。中には、恐ろしくなって信仰から離れてしまった人もいるのです。それだけ、聖書の言葉というのは、多くの人によって真剣に向き合って来られたことばなのですね。神の言葉は、人を倒したり立ち上がらせたりします。自らのその時の状態に向かって、キリストは時には大変厳しい言葉を発せられます。もし、その言葉によって倒されたとしても、それも神さまの大切な時なのだと受け取りたいと思います。(ヘブライ人への手紙6章4~12節(新406頁))

2018年

9月

23日

「神が人と和解する福音」(菊田行佳牧師)

キリスト教の信仰者になるということは、他のことやものでは満たしたり、達成出来ないことがあるからです。キリストへの信仰によってしか得られないことは何かといえば、「神が人である私と、和解してくださったという関係」だと言えます。キリスト教では神が霊として人の心の中に住まない限り、心の中の「肉の思い」を制御できないと考えます。ですので、人の外から介入してくる神の力が私に手をさしのべるという和解の行為を経ることで、人は始めて真の意味で自制的な人間となれるのだということです。そして、信仰によって心に住むようになった神は、私たちを自らの欲望に抑制的にしつつ、その肉の力を愛の力に変えて生きられるようにしてくれます。(コロサイの信徒への手紙 1章21~29節(新369頁))

2018年

9月

16日

「多くの人の罪を負うため身を献げるキリスト」(菊田行佳牧師)

キリスト教の礼拝の特徴は、神による罪の赦しを出席する者たちに及ぼすところにあります。そしてその罪の赦しは、礼拝で赦された者たちが、礼拝以外の時に関わる人々に対してもおよんで行くことが意図されています。つまり、キリストの礼拝は、日常のすべての時間と場所へ広がりを持っているものなのです。神による罪の赦しは、人を真に受け入れることで、神の意志に立ち返る回心をもたらします。その時人は始めて根源的な罪責の念から解放されます。その事を一人でも多くの人々に及ぼすために、信仰者は心から祈っています。(ヘブライ人への手紙 9章23~28節(新411頁))

2018年

9月

09日

「すべてのことに富む者は、分け与える者」(菊田行佳牧師)

献金を献げることには、身を削る痛みを伴います。また、隣人に対して奉仕を行うことにも何かしらの犠牲が伴うものです。そこに神からの意図を見いださない限り、積極的に自分を分け与えるということは出来ないでしょう。人間にとって本当に意味のあることには、いつも痛みや犠牲を伴うということを、私たちは経験的に知っているのではないでしょうか。与えることで貧しくなることは、返ってより大切なことで豊かになるのだということを。キリストの十字架の犠牲によってこの世界は贖われ、命を再生させました。ここに連なることで私たちの痛みと犠牲に、意味が生まれるのです。(コリントの信徒への手紙二 9章6~15節(新335頁))