2019年

8月

25日

「偶像と神の違いとは何か」(菊田行佳牧師)

「偶像から離れて神に立ち返り、生けるまことの神につかえるようになる」この事が、キリスト教における救済の中の一つとして考えられています。本日の聖書箇所では、このことに忠実に留まっているテサロニケ教会の人々が大変褒められています。もうこれ以上何も教えることがないとさえ、厚く支持されているのです。それでは偶像から離れるということは、いったいどういったことを意味しているのでしょうか。偶像に仕える最も顕著な例として、お金を拝むということがあります。お金ほど私たちを縛りつけて不自由にするものはないとみ言葉・聖書は言います。いったいどうしてでしょうか。(テサロニケの信徒への手紙一1章1~10節 (新374頁))

2019年

8月

18日

「悪に負けることなく、善を持って悪に勝つ」(菊田行佳牧師)

使徒パウロは「愛には偽りがあってはいけません」と言います。つまり偽善的で表面的なものではなく、真実の愛と呼べるような誠実さで隣人に向かうことを求めるのです。このことは主イエスさまも同じです。神を愛するのと同じ愛で隣人を愛することを求められました(マルコ福音書12章30~31節)。キリスト教が愛の宗教と言われるゆえんです。ただどうでしょうか。どうして誠実な愛によって隣人と関わらなくてはいけないのでしょうか。そうしないと神によって救われないからなのでしょうか。偽りの愛のままでは救いからもれるのでしょうか。そのことをごいっしょに考えましょう。(ローマの信徒への手紙12章9~21節 (新292頁))

2019年

8月

11日

「神の御心によって苦しむことがある」(菊田行佳牧師)

キリスト教は、神の愛を人々に伝えることがその目的にあります。よって基本的には人々に好意を持って受け入れられます。しかし、神の愛は人間の慣習や伝統とぶつかってしまうことがあるのです。例えば「男性を建てて女性を卑しめる」という伝統が色濃く残っている地域において、「男も女も等しく神は愛されている」と発言することは危険です。我々の土地の平和を乱さないでくれ!と反発を受けるのです。正しいと信じることで苦しみを受けることがあるのですね。それでも言葉でなくとも神の愛を示すことが出来ます。等しく誰をも愛する神を、その振る舞い方で現して行けるのです。(ペトロの手紙一3章13~22節 (新432頁))

2019年

8月

04日

「わたしの喜びである愛する人たち」 (菊田行佳牧師)

2019年8月4日礼拝説教原稿
「わたしの喜びである愛する人たち」 (菊田行佳牧師)
2019_8_4 説教原稿.pdf
PDFファイル 245.2 KB

2019年

7月

14日

「心の汚れを清めるもの」(菊田行佳牧師)

使徒言行録という聖書の文書には、イエスさまが天に召された後の教会の歴史が記されています。そこには初め教会はユダヤ人だけで構成されたことが記されています。何故ならユダヤ人だけが清くて他の国の人々は汚れているとしていたからです。しかし、復活の主イエスは、すべての人、そしてすべての生きとし生けるものを清めることによってこの両者の違いを撤廃なされました。そして、人を汚すのは、実は人の心なのだと明示したのです。人の心を清めることで、違いを越えて一致と平和が真にもたらされます。(使徒言行録11章4~18節 (新235頁))

2019年

7月

07日

「寂しい道を行く恵み」(菊田行佳牧師)

2019年7月7日 説教原稿
「寂しい道を行く恵み」(菊田行佳牧師)
2019_7_7 説教原稿.pdf
PDFファイル 230.3 KB

2019年

6月

30日

「イエスの名による救いとは」(菊田行佳牧師)

「救い」といいましても、いろいろな救いがあります。宗教の世界におきましても、その救いの意味や中身が変わってくるものです。キリスト教が提供いたします救いとなりますと、当然一つの救いが念頭にあるはずですが、しかし、今日の聖書箇所では、わざわざ「イエスの名による救い」について言及されているのです。つまり、同じ聖書を読んでいるのに、イエスの名による救いとその他の救いが分けられているのです。どうしてそうなるのかご一緒に考えてみましょう。(使徒言行録4章5~12節 (新219頁))

2019年6月30日説教原稿
「イエスの名による救いとは」(菊田行佳牧師)
2019_6_30 説教原稿.pdf
PDFファイル 321.0 KB

2019年

6月

16日

「受けるより、与えるしあわせ」(菊田行佳牧師)

イエスさまは、「受けるよりは与える方が幸いである」とおっしゃられました。この言葉を実際にやってみようとしますと、いかにそれが難しいことなのかがわかります。何の見返りもないところで、こちらから与えることに、どうしたら喜びを見いだすことが出来るのでしょうか。せめて何かを受けたなら、こちらからも与えることで精一杯ではないでしょうか。使徒パウロはここで、その大変難しい人生の幸いを、神の言葉を受け継ぐことで可能となるのだと言います。どのようにしてそうなれるのでしょうか。(使徒言行録 20章32~35節 (新255頁))

2019年6月16日説教原稿
「受けるより、与えるしあわせ」(菊田行佳牧師)
2019_6_16 説教原稿.pdf
PDFファイル 229.9 KB

2019年

6月

09日

「人々の言葉を混乱させる聖霊」 (菊田行佳牧師)

2019年6月9日 説教原稿
「人々の言葉を混乱させる聖霊」 (菊田行佳牧師)
2019_6_9 説教原稿.pdf
PDFファイル 281.8 KB

2019年

5月

26日

「人種の違いを越えさせる信仰とは」(菊田行佳牧師)

カファルナウムという町に、ある百人隊長(ローマ帝国軍の指揮官)が駐屯していました。彼の信仰を生きる姿を見て、イエスさまは大変心を打たれて驚かれました。いったいどのような信仰であったのでしょうか。ローマの軍隊によって力尽くで征服されたユダヤ人たちは、彼ら外国人を酷く憎んでいました。表向きは従順な姿勢を示していましたが、しかし内心は酷く相手を軽蔑し、心から信頼した関係を結ぶようなことはありません。しかし、この百人隊長だけは別です。頑なに心を閉ざしていたユダヤ人たちでさえも、彼にだけは違っていたのです。いったい何が彼らの心を開かせたのか。百人隊長は、いったいどういった信仰に生きていたのでしょうか。(ルカによる福音書7章1~10節(新114頁))

2019年5月26日礼拝説教原稿
「人種の違いを越えさせる信仰とは」(菊田行佳牧師)
2019_5_26 説教原稿.pdf
PDFファイル 298.4 KB

2019年

5月

19日

「あなたでなく、わたしがあなたを選んだ」(菊田行佳牧師)

「あなたがたが、わたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのだ」と、イエスさまは言います。このみ言葉は、人から主導権を取り上げて、神の意図がすべての事柄に優先していることを宣言するものです。特に、人の選びよりも神の選びの方が優先されるところとして、「互いに愛し合いなさい」というみ言葉の実践の場面があります。神は時に、大変難しい組み合わせにおいて、このみ言葉に取り組むことを望まれることがあります。「あなたが選ぶと、すぐ楽な方ばかりに行こうとするから、わたしが選んであげよう」そう言って、困難な課題に私たちを向き合わせられることがあるのです。子どもであっても、親であっても、知人や友人であっても、誰でも今与えられている組み合わせに、神の選びを信じましょう。(ヨハネによる福音書15章12~17節(新199頁))

2019年5月19日礼拝説教原稿
「あなたでなく、わたしがあなたを選んだ」(菊田行佳牧師)
2019_5_19 説教原稿.pdf
PDFファイル 296.1 KB

2019年

5月

12日

「永遠の命に導く食べ物」(菊田行佳牧師)

「わたしが命のパンである」と、イエス・キリストはおっしゃいます。このパンを食べるとき、人は決して飢えることがなく、またかわくこともないのだと言うのです。キリスト教信仰をこの言葉に照らして言ってみますと、信仰者とは普段食べる「主食」を変えた人々だと言えます。私たちの体は、その人が好む食べ物によって造りが変わって行きます。甘いものが好きな人は脂肪が付きやすいように、聖書の言葉を主な食物と換えることで、その心や考え方は大きく変わって行きます。例えば「何を食べようか、何を着ようか」と考えて生きていたのが、「朽ちるものではなく、永遠の命に至るもののために働こう」と変わる時、それまでとは違う命のあり方に変容しています。その時、私たちの飢えと渇きが、本当に満たされるのです.(ヨハネによる福音書 6 章 34~40 節(新 175 頁))

2019年

4月

28日

「復活したキリストを見る」(菊田行佳牧師)

死者の中から復活したイエス・キリストが、その姿を現すところとして、教会での礼拝の場が挙げられます。日々の生活の中で疲れて、意気消沈して暗い顔になるとき、復活したキリストは私たちの側に立ち、み言葉によって、また聖餐式を通してその心を回復させてくれます。復活したキリストが私たちの心を捉えることで、また心は燃え上がるのです。そして、また日常の生活に戻ることが出来るのですが、その時、目が開かれそれまでの世界の見方が変わり、視野が広がります。そうして私たちは命が再生されたものとして、再びこの世界に向かって行けるのです。(ルカによる福音書24章13~35節(新160頁))

2019年

4月

21日

「ここにはいない、復活した」 (菊田行佳牧師)

2019年4月21日礼拝説教原稿
「ここにはいない、復活した」(菊田行佳牧師)
2019_4_21 説教原稿.pdf
PDFファイル 294.7 KB

2019年

4月

14日

「イエスの苦しみの中の祈り」(菊田行佳牧師)

2019年4月14日 礼拝説教原稿
「イエスの苦しみの中の祈り」(菊田行佳牧師)
2019_4_14説教原稿.pdf
PDFファイル 317.8 KB

2019年

4月

07日

「捨てられたものに隠されたもの」(菊田行佳牧師)

2019年4月7日 礼拝説教原稿
「捨てられたものに隠されたもの」(菊田行佳牧師)
2019_4_7 礼拝説教原稿.pdf
PDFファイル 444.3 KB

2019年

3月

31日

「永遠の光に照らして見る」(菊田行佳牧師)

普段は気がつかないことが、ふとわかるという時があると思います。キリスト教の礼拝は、自らの日々の生活に新たに光をあてることで、意識的に視点を変えることを起こすものです。礼拝は、イエス・キリストの祈る言葉の中に、自らの身を置き直すことに他なりません。そのみ言葉によって、自分の人生に新たな意味を見い出させようと、キリストはご自分の祈りの中に人々を招かれます。人の目からはひどく醜いことであったとしても、神はそのようには見ておらず、そこに変容した尊い価値を見いだして下さいます。その神の視点から見た世界を、参与する人々に見せてくださるのです。(ルカによる福音書9章28~36節(新123頁))

2019年3月31日 説教原稿
「永遠の光に照らして見る」(菊田行佳牧師)
2019_3_31 説教原稿.pdf
PDFファイル 264.2 KB

2019年

3月

24日

「背負うものによって変わる人生」(菊田行佳牧師)

キリスト教のシンボルとして、十字架が教会に掲げられています。十字架の意味とは一体何であるでしょうか。一つはイエス・キリストの受難(死)を現していますが、それだけではありません。他者を救い生かすために、隣人への愛のためになされたすべてのキリストの苦しみをも意味しています。この十字架の苦難を、自らも背負いたいと願う者に、神は本当の命を与えてくださいます。苦しみを避けることで返って失う命がある一方で、自分の安全や命を捨てることで得られる真の命があるのですね。十字架を通した平安と自由に満ちた命です。(ルカによる福音書9章18~27節(新122頁))

2019年3月24日 説教原稿
「背負うものによって変わる人生」(菊田行佳牧師)
2019_3_24 説教原稿.pdf
PDFファイル 407.9 KB

2019年

3月

17日

「悪霊の正体とは何か」(菊田行佳牧師)

聖書には悪霊とか悪魔という言葉が沢山出てきます。現代の私たちにとっては、とっつきにくく理解しがたい聖書の言葉だと思われます。しかし、今回の聖書箇所で悪霊がとりついていた人物の方に目を向けてみたらどうでしょう。その人物は、悪霊によって口がきけなくなっていました。誰とも話すことが出来ずに人と接することも難しくなっている人が身近にいる人にとっては、とても興味を引く話に聞こえてこないでしょうか。もしこの聖書箇所を通して、その苦しんでいる人が救われるのなら、聖書に耳を傾ける気持ちにならないでしょうか。聖書は私たちの愛を引き出す力を持っています。(ルカによる福音書11章14~26節(新128頁))

2019年3月17日 説教原稿
「悪霊の正体とは何か」(菊田行佳牧師)
2019_3_17 説教原稿.pdf
PDFファイル 490.9 KB

2019年

3月

10日

「狭い道の先にあるもの」(菊田行佳牧師)

私たち人間は、何かと誘惑の多い生活をしていると思います。たとえば悪魔のような存在が、私たちを迷わして滅びに至らせようとしていると考えざるをえないことが起こります。それは、キリスト教信仰を持った後も起こることです。いえむしろ、その後の方がより迷い悩むこともあるのです。主イエスも、他の人間と同じようにこの誘惑に遭われました。主イエスは神の言葉に従うことでその誘惑を退けましたが、実はこの誘惑は神の霊から出た試練だったのです。試練を経た後、主イエスを待ち受けていたものはこの世のものとは思えない平安と自由です。神の試練は大きな実りをもたらすのです。(ルカによる福音書4章1~13節(新107頁))

2019年3月10日説教原稿
「狭い道の先にあるもの」(菊田行佳牧師)
2019_3_10_説教原稿.pdf
PDFファイル 258.0 KB

2019年

3月

03日

「神のみ手の中で食事する」(菊田行佳牧師)

2019年3月3日説教原稿
「神のみ手の中で食事する」(菊田行佳牧師)
19_3_3_説教原稿.pdf
PDFファイル 279.9 KB

2019年

2月

24日

「罪が赦され癒やされる」(菊田行佳牧師)

イエスさまは、人々の病を癒すことをよくなされていましたが、今回の聖書の箇所では、重い皮膚病の人と中風(身体の麻痺)の人の病を癒されました。ここでイエスさまが病を癒されるのに用いた方法は、一つは「汚れを清める」というものでした。当時は病を患う人は汚れていると考えられたので、病気が癒されて初めてその汚れは清められたとしていたのです。しかし、イエスさまは病気自体を汚れとは考えません。病人を汚いものでも扱うようなその心のあり方こそ汚れているとされたのです。同じように、当時は病気をその人やその家族が犯した罪が原因としても考えていました。ですから、病気が癒されて初めて罪が赦されたのだとしたのです。これに対しても、病気をその人たちの自己責任として冷たく扱うその姿勢こそ、罪深い行為なのだとイエスさまはその意味を変容いたしました。癒しに先行する清めと2つめの「罪の赦しの宣言」は、病気を患い身体的にも精神的にも苦しめられていた人々の心に触れる神のみ手そのものでした。心や体の癒やしもさることながら、人々の病人への考え方をお癒しになり、その関わり方を変えられたことが、より大きな意味での病の癒しの業として言うことができるでしょう。(ルカによる福音書5章12~26節(新110頁))

2019年2月24日説教原稿
「罪が赦され癒やされる」(菊田行佳牧師)
2019_2_24_説教原稿.pdf
PDFファイル 351.5 KB

2019年

2月

17日

「良い土地に種がまかれる」(菊田行佳牧師)

イエスさまは、人々に種まきのたとえ話をされました。四つの種のうちで良い土地に落ちたのは、たったの一つでした。そうすると、先にまいた三つの種は無駄になったようにも思えます。しかし、その3つの失敗があったからこそ、四つめの良い土地を探し当てることにつながったのだとも考えられます。どう考えるかで、人生を前向きにも後ろ向きにもすることが出来ますね。この種は「神の言葉」を表していますが、人生そのものを良い土地に耕すには、神の言葉をまき続ける根気も必要です。たとえうまく行かない方がよっぽど多かったとしても、その失敗や挫折が肥やしとなってくれます。神の恵みの実がみのるためには、何一つ無駄なものはないのですね。(ルカによる福音書8章4~15節(新118頁))

2019年2月17日 説教原稿
「良い土地に種がまかれる」(菊田行佳牧師)
2019_2_17_説教原稿.pdf
PDFファイル 282.2 KB

2019年

2月

10日

「主の安息の日に命が救われる」(菊田行佳牧師)

「安息日」というのは、神さまが私たち人間に与えてくださった聖なる特別な日です。それは、労働からの解放の日であり、心と体を回復させる日であります。置かれている立場に限らず、たとえ雇われ人という弱い立場の人であっても、皆平等に休息を与えてくださることが神さまの目的です。1週間の内、最低1日は働くことを免除されることが、神さまの慈しみから出たものです。その休息を通して、また回復して生きて行くための命を与えてくれるのが「安息日」なのです。しかし、時としてその命を与えるはずのものを、返って人々の命を圧迫し、減退させてしまうものに変えてしまうことがあります。宗教や信仰が自らのあり方を顧みる必要もあるのです。(ルカによる福音書6章1~11節(新111頁))

2019年2月10日説教原稿
「主の安息の日に命が救われる」(菊田行佳牧師)
2019_2_10 説教原稿.pdf
PDFファイル 304.2 KB

2019年

2月

03日

「新しいぶどう酒が注がれる」(菊田行佳牧師)

2019年2月3日説教原稿
「新しいぶどう酒が注がれる」(菊田行佳牧師)
2019年2月3日_説教原稿.pdf
PDFファイル 234.9 KB

2019年

1月

27日

「豪華な神殿にまさる建物」(菊田行佳牧師)

神さまに捧げ物をするのは何も豊かな人だとは限りません。たとえ経済的に厳しい生活をしている人でも、献金を捧げます。それは「受けるより与える方が幸いだ」という主イエスの言葉があるからです(使徒20:35)。人と人が物や心を交換し合うところに喜びを感じるように、神との関係も相互の交流が深い喜びをもたらしてくれます。捧げ物を免除してしまうと、この機会を奪うことになってしまいます。捧げ物の問題点は、貧しい者も捧げているというのに、その使い道が神の御心に適っていないところにあります。捧げ物によって豪華な装飾品で飾っていた神殿を、主イエスは崩れ去ると予告しました。外見によらずに、まことの礼拝をするところこそが必要なのです。(ルカによる福音書21章1~9節(新151頁))

2019年1月27日説教原稿
「豪華な神殿にまさる建物」(菊田行佳牧師)
2019_1_27_説教原稿.pdf
PDFファイル 263.8 KB

2019年

1月

20日

「重荷から解放されて回復する」(菊田行佳牧師)

人の貧しさにはいろいろあると思います。お金がいつもないとか借金をたくさん抱えていていつも重くのしかかり、つぶれてしまいそうな貧しさがあります。そうかと思えば貯金は沢山あるけれど、心にぽっかり穴が空いた貧しさもあります。救い主がこの世界に訪れたのは、そのような人間が抱えるすべての貧しさから癒やし、回復させるためです。私たちを束縛し圧迫するすべての重荷から回復させるため、主イエスは私たちの前に現れます。それは丁度治療に行きづまった患者に手をさしのべる医者のようです。医者は患者の信頼を獲得するために身を捧げてくれます。主イエスは人間なら誰でも陥る根の深い病から回復させるため、命をかけられる最良の医師でなのです。(ルカによる福音書4章16~30節(新107頁))

2019年1月20日説教原稿
「重荷から解放されて回復する」(菊田行佳牧師)
2019_1_20_説教原稿.pdf
PDFファイル 252.8 KB

2019年

1月

13日

「イエスの弟子になるということ」(菊田行佳牧師)

イエスさまの弟子になるということは、それまでの生活を大きく変えて行きます。一番最初の弟子たちは、それまでどれだけ多くの魚を捕ることができるかを一番に気にする生活を送っていた漁師でした。それが、イエスさまに出会って従うようになりますと、一番に大切にするものが変わってしまいます。それは「聖なるもの」との繋がりです。この繋がりこそが、生活を本当の意味で豊かに生き生きと再生させてくれるものだったのです。しかし、「聖なるもの」は同時に人間の恐れをも引き起こします。ですので「恐れることはありません」と励ます人が必要です。弟子たちは、その役割にも招かれています。(ルカによる福音書 5 章 1~ 11節(新109頁))

2019年1月13日説教原稿
「イエスの弟子になるということ」 (菊田行佳牧師)
2019_1_13_説教原稿.pdf
PDFファイル 289.3 KB

2019年

1月

06日

「洗礼という人生の転換点」(菊田行佳牧師)

2019年1月6日説教原稿
「洗礼という人生の転換点」(菊田行佳牧師)
2019_1_6_説教原稿.pdf
PDFファイル 300.7 KB

2018年

12月

30日

「クリスマスの来訪者」(菊田行佳牧師)

クリスマスに御子イエス・キリストのお誕生を喜べない状況が私たちにはあると思います。そのような人の代表として聖書にはエルサレムの住人たちが挙げられています。ユダヤの首都であったエルサレムでしたが、この町は外国から支配され虐げられてきたという苦しみの歴史がありました。ここの住民にとって、救いとは外国の支配からの解放であり、抑圧から自由にされることでした。御子イエスさまは、この彼らの重い苦しみを贖います。しかし、同時にすべての人を罪から贖うためにもお生まれになられたのです。私たちの救いとすべての人の救い。この二つを重ねて見る必要があります。(マタイによる福音書2章1~12節(新2頁))

2018年12月30日説教原稿
「クリスマスの来訪者」(菊田行佳牧師)
2018_12_30説教原稿.pdf
PDFファイル 256.6 KB