2019年

2月

17日

「良い土地に種がまかれる」(菊田行佳牧師)

イエスさまは、人々に種まきのたとえ話をされました。四つの種のうちで良い土地に落ちたのは、たったの一つでした。そうすると、先にまいた三つの種は無駄になったようにも思えます。しかし、その3つの失敗があったからこそ、四つめの良い土地を探し当てることにつながったのだとも考えられます。どう考えるかで、人生を前向きにも後ろ向きにもすることが出来ますね。この種は「神の言葉」を表していますが、人生そのものを良い土地に耕すには、神の言葉をまき続ける根気も必要です。たとえうまく行かない方がよっぽど多かったとしても、その失敗や挫折が肥やしとなってくれます。神の恵みの実がみのるためには、何一つ無駄なものはないのですね。(ルカによる福音書8章4~15節(新118頁))

2019年

2月

10日

「主の安息の日に命が救われる」(菊田行佳牧師)

「安息日」というのは、神さまが私たち人間に与えてくださった聖なる特別な日です。それは、労働からの解放の日であり、心と体を回復させる日であります。置かれている立場に限らず、たとえ雇われ人という弱い立場の人であっても、皆平等に休息を与えてくださることが神さまの目的です。1週間の内、最低1日は働くことを免除されることが、神さまの慈しみから出たものです。その休息を通して、また回復して生きて行くための命を与えてくれるのが「安息日」なのです。しかし、時としてその命を与えるはずのものを、返って人々の命を圧迫し、減退させてしまうものに変えてしまうことがあります。宗教や信仰が自らのあり方を顧みる必要もあるのです。(ルカによる福音書6章1~11節(新111頁))

2019年2月10日説教原稿
「主の安息の日に命が救われる」(菊田行佳牧師)
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2019年

2月

03日

「新しいぶどう酒が注がれる」(菊田行佳牧師)

2019年2月3日説教原稿
「新しいぶどう酒が注がれる」(菊田行佳牧師)
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2019年

1月

27日

「豪華な神殿にまさる建物」(菊田行佳牧師)

神さまに捧げ物をするのは何も豊かな人だとは限りません。たとえ経済的に厳しい生活をしている人でも、献金を捧げます。それは「受けるより与える方が幸いだ」という主イエスの言葉があるからです(使徒20:35)。人と人が物や心を交換し合うところに喜びを感じるように、神との関係も相互の交流が深い喜びをもたらしてくれます。捧げ物を免除してしまうと、この機会を奪うことになってしまいます。捧げ物の問題点は、貧しい者も捧げているというのに、その使い道が神の御心に適っていないところにあります。捧げ物によって豪華な装飾品で飾っていた神殿を、主イエスは崩れ去ると予告しました。外見によらずに、まことの礼拝をするところこそが必要なのです。(ルカによる福音書21章1~9節(新151頁))

2019年1月27日説教原稿
「豪華な神殿にまさる建物」(菊田行佳牧師)
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2019年

1月

20日

「重荷から解放されて回復する」(菊田行佳牧師)

人の貧しさにはいろいろあると思います。お金がいつもないとか借金をたくさん抱えていていつも重くのしかかり、つぶれてしまいそうな貧しさがあります。そうかと思えば貯金は沢山あるけれど、心にぽっかり穴が空いた貧しさもあります。救い主がこの世界に訪れたのは、そのような人間が抱えるすべての貧しさから癒やし、回復させるためです。私たちを束縛し圧迫するすべての重荷から回復させるため、主イエスは私たちの前に現れます。それは丁度治療に行きづまった患者に手をさしのべる医者のようです。医者は患者の信頼を獲得するために身を捧げてくれます。主イエスは人間なら誰でも陥る根の深い病から回復させるため、命をかけられる最良の医師でなのです。(ルカによる福音書4章16~30節(新107頁))

2019年1月20日説教原稿
「重荷から解放されて回復する」(菊田行佳牧師)
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2019年

1月

13日

「イエスの弟子になるということ」(菊田行佳牧師)

イエスさまの弟子になるということは、それまでの生活を大きく変えて行きます。一番最初の弟子たちは、それまでどれだけ多くの魚を捕ることができるかを一番に気にする生活を送っていた漁師でした。それが、イエスさまに出会って従うようになりますと、一番に大切にするものが変わってしまいます。それは「聖なるもの」との繋がりです。この繋がりこそが、生活を本当の意味で豊かに生き生きと再生させてくれるものだったのです。しかし、「聖なるもの」は同時に人間の恐れをも引き起こします。ですので「恐れることはありません」と励ます人が必要です。弟子たちは、その役割にも招かれています。(ルカによる福音書 5 章 1~ 11節(新109頁))

2019年1月13日説教原稿
「イエスの弟子になるということ」 (菊田行佳牧師)
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2019年

1月

06日

「洗礼という人生の転換点」(菊田行佳牧師)

2019年1月6日説教原稿
「洗礼という人生の転換点」(菊田行佳牧師)
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2018年

12月

30日

「クリスマスの来訪者」(菊田行佳牧師)

クリスマスに御子イエス・キリストのお誕生を喜べない状況が私たちにはあると思います。そのような人の代表として聖書にはエルサレムの住人たちが挙げられています。ユダヤの首都であったエルサレムでしたが、この町は外国から支配され虐げられてきたという苦しみの歴史がありました。ここの住民にとって、救いとは外国の支配からの解放であり、抑圧から自由にされることでした。御子イエスさまは、この彼らの重い苦しみを贖います。しかし、同時にすべての人を罪から贖うためにもお生まれになられたのです。私たちの救いとすべての人の救い。この二つを重ねて見る必要があります。(マタイによる福音書2章1~12節(新2頁))

2018年12月30日説教原稿
「クリスマスの来訪者」(菊田行佳牧師)
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2018年

12月

23日

「暗闇の中で輝く光」 (菊田行佳牧師)

2018年12月23日クリスマス礼拝 説教原稿
「暗闇の中で輝く光」 (菊田行佳牧師)
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2018年

12月

16日

「恐れを打ち消す神の愛」(菊田行佳牧師)

2018年12月16日説教原稿
「恐れを打ち消す神の愛」(菊田行佳牧師)
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2018年

12月

09日

「人の思いと異なる神の計画」(菊田行佳牧師)

昔若い頃に思い描いていた通りに、自分の人生が順調に進んで来た方はどれくらいいるのでしょうか。つつましくも家族や近隣の人々と仲良く平和に暮らせればそれで良いと思っていたのに、それすらも今は出来ていないと恥ずかしく思われている方もいるかもしれません。日々の生活に追われている大変さもさることながら、心が満たされない空しさが何より切なく思うこともあることでしょう。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なる。」という聖書の言葉は、そんな空しく思う私たちの人生をもう一度光を当て直すきっかけを与えてくれます。「神はわたしの人生に、何を望んでおられるのだろうか」そう見てみますと、人生の意味を見いだすことが出来るはずです。(イザヤ書55章1~11節(旧1152頁))

2018年12月9日説教原稿
「人の思いと異なる神の計画」(菊田行佳牧師)
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2018年

11月

25日

「民を導く指導者とは」(菊田行佳牧師)

私たちは、どこかの場面で指導的な立場に立たざるをえなくなることがあると思います。仕事をしている人はもちろん、そうでなくとも家庭や町内会などで責任を負うことがあります。そのような時、どんなことに気をつけるべきでしょうか。聖書が教える指導者の姿は、平等性や公平性を守るところにあります。たとえ自分であっても特別扱いせずに、一人一人の構成員が公平に利益や権利を受け取れるように心を配ります。特に弱く傷つきやすい存在に特別な配慮をして引き上げることで、でこぼこを平らにします。ダビデという理想的な指導者の末であるイエス・キリストは、その事で世界に平和をもたらしてくれます。(サムエル記下5章1~5節(旧487頁))

2018年

11月

18日

「わたしはあるという者だ」(菊田行佳牧師)

モーセが神に対してそのお名前を聞くと、神はこう答えました。「わたしはあるという者だ」 これは、どういうことなのでしょう。これは、「神は優しい」とか、「いや、厳しい方だ」などと何かの属性や性質をともなわない無属性だということです。人間は、自らの願いを神に投影してしまうことがあります。そうして、神を狭い自分たちの世界に閉じ込めてしまうのです。それは同時に、私たち自身をも何かの型にはめ込んでしまうことを意味しています。神はその行き詰まりを打破するために、何者にも囚われないご自身の姿を現されます。(出エジプト記3章1~15節(旧96頁))

2018年

11月

11日

「子どもを授からない祝福もある」(菊田行佳牧師)

アブラハムとサラという夫婦のところに、3人の旅人が訪れました。普段生活している自分たちの世界からすると、その外側に暮らす人々です。彼らがもたらすものは幸福か。それとも災いなのか。時として、外からやって来る刺激は、私たちに混乱をもたらします。それまでの常識では通用せず、無理矢理変革を迫られる事態にも遭遇いたします。仲の良い家庭、子どもにも恵まれた理想的な家族。そんな常識を超えた、祝福された生のあり方を示される時が、突然訪れることがあるのですね。外部世界から訪れた3人の旅人は、神が使わしました。子どものいないこの夫婦に、神の祝福の意味を伝えに来たのです。(創世記18章1~15節(旧23頁))

2018年

10月

28日

「嵐の中から現れる神」(菊田行佳牧師)

砂嵐の中から、神はヨブに現れました。突然の幸福な人生が壊され、災いと病がヨブを襲います。子どもたちは自然災害によってすべて奪い去られ、ヨブの体中の皮膚が出来物によって覆われてしまいます。まさに、ヨブの人生も心の中も嵐の中に置かれていたのです。ヨブは自ら罪の性で天罰が下ったとはどうしても考えられません。それなら、どうして正しく生きようと努力している者に災いが下されるのだろうか。ヨブの苦闘の相手は、神でした。嵐の中から、神が答えてくれることを待ち望んだのです。神はどう答えるのでしょうか。(ヨブ記38118節(旧826頁))

2018年

10月

14日

「信仰によって生きる楽しみ」(菊田行佳牧師)

信仰によって生きることは、一見厳しい道を選択するようにも受け取れることです。人に従わず、神に従うということは、たとえ少ない人数であっても、安易に多数の人々に妥協をしないということも求められるからです。しかし、最も信仰者の前に立ちふさがり、対峙しなければならないのは神ご自身です。信仰者は理不尽に被る苦しみも、その出所をすべて最後は主なる神から来たものとして受け取るからです。神に向き合い、格闘し、弱り果てるとき、神の姿を見ることになります。この時一番天の神に近づくのです。この神とつながる取り組みは、何よりも楽しいことだと言えると思います。(ヘブライ人への手紙11章23~28節(新416頁))

2018年

9月

30日

「信仰に留まる大切さ」(菊田行佳牧師)

聖書の中には、大変厳しい言葉があります。「堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることは出来ません」という御言葉は、多くの人々を立ち止まらせ、深く考えさせてきました。中には、恐ろしくなって信仰から離れてしまった人もいるのです。それだけ、聖書の言葉というのは、多くの人によって真剣に向き合って来られたことばなのですね。神の言葉は、人を倒したり立ち上がらせたりします。自らのその時の状態に向かって、キリストは時には大変厳しい言葉を発せられます。もし、その言葉によって倒されたとしても、それも神さまの大切な時なのだと受け取りたいと思います。(ヘブライ人への手紙6章4~12節(新406頁))

2018年

9月

23日

「神が人と和解する福音」(菊田行佳牧師)

キリスト教の信仰者になるということは、他のことやものでは満たしたり、達成出来ないことがあるからです。キリストへの信仰によってしか得られないことは何かといえば、「神が人である私と、和解してくださったという関係」だと言えます。キリスト教では神が霊として人の心の中に住まない限り、心の中の「肉の思い」を制御できないと考えます。ですので、人の外から介入してくる神の力が私に手をさしのべるという和解の行為を経ることで、人は始めて真の意味で自制的な人間となれるのだということです。そして、信仰によって心に住むようになった神は、私たちを自らの欲望に抑制的にしつつ、その肉の力を愛の力に変えて生きられるようにしてくれます。(コロサイの信徒への手紙 1章21~29節(新369頁))

2018年

9月

16日

「多くの人の罪を負うため身を献げるキリスト」(菊田行佳牧師)

キリスト教の礼拝の特徴は、神による罪の赦しを出席する者たちに及ぼすところにあります。そしてその罪の赦しは、礼拝で赦された者たちが、礼拝以外の時に関わる人々に対してもおよんで行くことが意図されています。つまり、キリストの礼拝は、日常のすべての時間と場所へ広がりを持っているものなのです。神による罪の赦しは、人を真に受け入れることで、神の意志に立ち返る回心をもたらします。その時人は始めて根源的な罪責の念から解放されます。その事を一人でも多くの人々に及ぼすために、信仰者は心から祈っています。(ヘブライ人への手紙 9章23~28節(新411頁))

2018年

9月

09日

「すべてのことに富む者は、分け与える者」(菊田行佳牧師)

献金を献げることには、身を削る痛みを伴います。また、隣人に対して奉仕を行うことにも何かしらの犠牲が伴うものです。そこに神からの意図を見いださない限り、積極的に自分を分け与えるということは出来ないでしょう。人間にとって本当に意味のあることには、いつも痛みや犠牲を伴うということを、私たちは経験的に知っているのではないでしょうか。与えることで貧しくなることは、返ってより大切なことで豊かになるのだということを。キリストの十字架の犠牲によってこの世界は贖われ、命を再生させました。ここに連なることで私たちの痛みと犠牲に、意味が生まれるのです。(コリントの信徒への手紙二 9章6~15節(新335頁))

2018年

8月

19日

「地の果てを目指して生きる」( 菊田行佳牧師)

最初の頃のキリスト者たちは、大変身軽な生き方をしていました。すべての人ではありませんでしたが、中には総距離にして2万キロにもおよぶ福音伝道を行った人たちもいたのです。「食べるものと着るものさえあればそれで満足すべきです」という言葉をお互いに掛け合うことで、このような日々の生活に捕らわれすぎない生き方を選択して行きました。彼らの自己意識は次の様なものです。「私たちはこの世では旅人だ。永遠の世界に戻るまでの仮住まいの身なのである。」身軽な魂は、自由な人生をもたらしてくれます。(使徒言行録13章44~52節(新240頁))

2018年

6月

17日

「神の霊が目を覆う」(菊田行佳牧師)

神の霊が働くとき、突然目が見えなくなるということが起こりました。それまで自らの生き方に疑問を持つことなく、大きな問題を抱えていなかった人が、そのような状態に導かれることがあります。法を犯すような罪を犯してはいませんが、それでも欺瞞と偽りを抱えて、これも生きるための方便だと自らをごまかしていたところ、目の前が真っ暗にされるのです。その時目の暗さとは反対に、心の奥の方で開き始めた新しい目が誕生しかかっていることを予感いたします。「真実に、本当のことをして生きていきたい」。そのような無意識に潜む私たちの心の声を、神は霊によって引き出されます。(使徒言行録 13章1~12節 (新237頁))

2018年

5月

27日

「神の子どもとする霊を頂く」(菊田行佳牧師)

キリスト教の教会では洗礼を受けてキリスト者になることを、新しく生まれ変わると捉えて来ました。どう生まれ変わるのかと言いますと、それまで自分の体は自分自身が操縦していたのですが、これからは神の霊が私の体の中で働いてくれるのだという生き方に変わるのです。肉なる私は依然として弱いのですが、霊なる神は私の中で元気に働いてくれます。私のすること(義務)は、できる限り神の邪魔をしないことです。肉なる私と霊なる神(キリスト)が共生している状態を、父(アッバ=パパ)と私の家族の近さになぞらえられます。アッバと呼ぶ時、神と私は一つです。(ローマの信徒への手紙 8章12~17節 (新284頁))

2018年

5月

13日

「「イエスの祈りの中で」(菊田行佳牧師)

今回の聖書箇所では、イエスさまが弟子たちのために祈りを捧げられています。天の父なる神とイエスさま、そして聖霊が一つであるように、弟子たちも一つとなれるようにと祈られました。それは、弟子たちがそれぞれ一人一人ばらばらに歩むのではなく、一致を求めて行く過程にこそ、信仰にとってとても大切な意義があるのだと考えられていたからだと思います。この祈りは、弟子たちと今生の別れとなる最後の別れの晩に、弟子たちの心に残るように祈られたものです。このイエスさまの祈りに導かれ、一つになることを目指して行った時、なぜこのことを弟子たちに求められたのか、そのイエスさまの意図がわかるのだと思います。(ヨハネによる福音書 17章1~13節 (新202頁))

2018年

4月

29日

「喜びが満たされるように」(菊田行佳牧師)

もし、私たちがブドウの木の一部である枝であったとしたら、どんなことが一番の喜びになるでしょうか。やはり、良いブドウの実がなることだと思います。木の幹と実の間にある枝は、水分や養分を中継する役割を担うことに自らの喜びを見いだします。もしこれが、自分の所で全部消費してしまったらどうでしょう。良い実をもたらすことが出来ずに、一番の喜びは失われてしまいます。主役になるのではなく、つなぎ役に徹することで得られる喜びがあることを聖書は教えてくれます。(ヨハネによる福音書 15章1~11節 (新198頁))

2018年

4月

22日

「イエスが残したおきて」(菊田行佳牧師)

神の存在に、人が気がつくのはどんな時でしょうか。美しい草花などの自然にそっと身を置いた時、それらを造った方に思いをはせるということがあるでしょう。また逆に、荒涼とした虚しい世界の中で意味を与えてくれる存在を求める思いがわいてくるということもあると思います。それらの内で、人が人を愛そうというその中に、神は最もご自分の姿を現そうとしているのだと聖書は言います。どうしてそうなのかという理由は言いません。ただ、もし神のことを知りたいなら、「互いに愛し合いなさい」と言うだけです。そして、あなたたちがそのおきてを守るとき、人々は神の存在に気づくのだと言うのです。(ヨハネによる福音書13章31~35節(新195頁))

2018年

2月

18日

「野獣と天使が同居する」(菊田行佳牧師)

霊に導かれてイエスさまが送られたのは、悪魔や野獣がうごめく荒野でした。数知れぬ試練にさらされて、道からそれて行くように多くの誘惑をここで受けたのです。この苦難ばかりの荒野に導いたのはどんな霊なのかというと、なんとそれは神から出た霊、聖霊でした。神さまはどうして愛するイエスさまを、こんな危険なところに送られたのでしょうか。そして同じように、神さまはどうしてある人を、安全で何でも満たされたところではなく、困難な環境の中に送られることがあるのでしょうか。愛するからこそ、与えられる神の試練、そこに答えがありそうです。(マルコによる福音書 1 章 12~15 節(新 61 頁))

2018年

1月

28日

「どんな種を植えますか?」(菊田行佳牧師)

やるべきことを怠っているという後ろめたさや引け目が貯まって行くと、心に大きな負担が生じると思います。「罪」というのは、負い目、負債として当時の人々は考えていました。自分ではとうてい返せなくなった負い目は、誰かに代わってもらわない限りずっと重くのしかかる負担であり続けます。私たちの後ろめたさを払拭してくれて、負い目を取り除いてくれるのは、神さまの赦しであり、愛だけです。そして、その神の赦しを基調として人と人が関わる場所だけが、人を真に癒すことが出来るのです。(マルコによる福音書 4章1~9節、新66頁)

2017年

5月

28日

「天に帰る」(菊田行佳牧師)

イエスさまは死んだ後、復活されて、天に上げられました。このことを、キリスト教信仰書は信じます。ただ、このことを信じるということは、機械的に神的奇跡行為を信じることではありません。その内容が大切だと思います。イエスさまが天に帰るのは、地上で神と人とをつないだ結び付きを、そのまま天にまで持って帰るためだったというところがとても重要です。地上で結び合わされた神との繋がりは、天においても決して切れることはありません。そのことのために、イエスさまは天に帰って行かれました。(ルカによる福音書 24 章 44~53節(新 161 頁))

 

2017年

5月

21日

「天父の名はアッバ」(菊田行佳牧師)

いつも忙しく働いている人には、ゆっくり祈る時間もありません。イエスさまの周りには、祈りたくても祈ることの出来ない人々がたくさんいました。会堂で教師たちは、会衆に向かって熱心に祈る事を勧めていました。朝、昼、晩に祈る彼らが定めた祈祷文は、とても長いものでした。それに対して、イエスさまはご自分の弟子たちに非常に短くても、信仰の中心的事柄が込められている「主の祈り」を与えられました。その中でも、中心は神を「アッバ」と呼ぶことでした。(マタイによる福音書6章5~15節(新9頁))