「十字架の主を仰ぐ」(新保能宏牧師)

神を信じるために、奇跡を見せて欲しいと言う人がいます。神を認めるために、自分を説得できる知恵や知識を求める人がいます。それらは、どちらも自分が信じるため、自分が認めるために、必要だと自分が中心の発想です。私達は、礼拝に来て十字架の主を仰ぎます。礼拝には十字架が立っているからです。キリストが苦しみ、死んでいきました。それは、私達のためです。私達が本来、十字架にかかるほどの罪を持っているからです。しかし、神は私達を憐れみ、赦し、かわりにキリストを十字架にお架けになったのです。また、その十字架を突き抜けて、キリストは死から甦られました。それは、私達の復活のさきがけとして、永遠の命への道をひらいてくださったのです。ここに神の恵みがあります。私達がキリストの十字架を仰ぐということは、神の恵みを仰ぐということです。それは、人間のどんな知恵や知識でも到達することのできない、神のカと神の知恵だからです。(イザヤ書 6 章 8 ~13 節、及び、コリントの信徒への手紙一 1 章 20~25節)