「私達は聖霊の宮」(新保能宏牧師)

私達に自由ほど魅力的なものはありません。ところが、この自由を「何をしても許される」と、履き違えると大変なことになります。確かにキリスト者は何にも支配されない自由をもっていますが、それは、キリストの命と引き換えに得た罪と死からの自由です。ですから、私達の体は聖霊が宿ってくださって、神の救いと祝福、そして死を克服する復活へと導かれる存在なのです。復活のキリストと一つに結ばれるということです。しかし、コリントの人達はその体を娼婦と交わらせるという罪を犯していました。パウロは、「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。」と言います。それは、救いと復活への道が閉ざされかねない重大な罪だからです。私達も自らの生活を省み、もう一度、「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではない」。むしろ、「神の栄光を現わす」存在として、キリストと一つとされた恵みに感謝し、真の自由の貴さに喜び生かされたいと願います。(創世記 2 章 18~24 節、及び、コリントの信徒への手紙一 6 章 12~20節)