「神のものとなる幸い」(新保能宏牧師)

私達は自分は自分のものだと思っています。しかし、私達の生活はいつも自分の思うようにはならないことが多いのではないでしょうか。そんな時、どこに神様の御心があるのだろうかと思い悩みます。パウロは「それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい」と言います。たとえ、自分の思うようにならない状態だったとしても、身分であったとしても、「神に召されたときの身分のままで」と言います。この「召されたとき」とは、神に救われた時、言い換えれば神のものになった時ということです。神がその人を召すのは、その人がこの世的に身分が高いからでも、人間的に優れているからでもありません。たとえ、その人が誰からも振り向かれず、自分は無に等しいと思っていても、その人は神から必要とされているのです。その人は神の目に貴いからです。そのために神はキリストの十字架という「身代金を払って買い取ってくださった」のです。人の奴隷、この世の何かの奴隷の状態から真の自由を得るためです。神に買い取られキリストの奴隷となることは、それぞれの状態の中で、神のものとされた幸いを生きることだからです。(創世記 17 章 9~14 章、及びコリントの信徒への手紙一 7 章 17~24 節)